ナイジェリアの情報機関

bullet

国家情報局(National Intelligence Agency − NIA)

bullet

国家保安庁(State Security Service − SSS)

bullet

国防情報局(Defence Intelligence Agency − DIA)

 ナイジェリアは、アフリカで最も人口稠密な国で、規模に関して5番目の米国への石油供給国である。1960年10月1日、ナイジェリアは、連邦の枠内において独立国家となった。1960年10月7日、国連に加盟した。1962年1月、1961年初めに締結された英・ナイジェリア防衛協定 が破棄された。1966年1月15日、ナイジェリアで軍事クーデターが起こり、I.イロンシ将軍を長とする連邦軍事政権が樹立され、大統領のポストと連邦及び地域政府の全閣僚ポストの廃止について布告され、州では、軍人知事が任命された。

 1967年5月、東ナイジェリアは、同国からの離脱と独立国家ビアフラの宣言について表明した。ちなみに、ビアフラでの蜂起は、フランス諜報部SDECEにより準備された。このようにして、SDESE長官ジャック・フォッカーは、ナイジェリアの石油に対する支配を米英から奪おうと試みた。その後続く3年間の内戦において、分離主義者は撃破され、降伏した。1976年から1985年まで、国内の政治状況は、困難なままだった。一連の軍事クーデターが起こり、汚職が増加した。1993年、国内に、軍事体制、検閲が導入され、IMFの監督下で改革実施の試みが着手された。現在、国家機構の汚職水準に関して、ナイジェリアは、世界第1位を占め、麻薬取引に著しく関与している。この際、採油世界13位を占める同国は、燃料不足という重大な困難を経ている。しかし、西側の多くの国は、これらの国を代表する多国籍石油会社が特に採油複合体に重大な投資を行っているため、国内で起こっていることに目を閉ざしがちである。全採油の40%までを支配する英蘭企業Royal Dutch/Shellの立場が特に強い。1999年、軍人は、文民政府に権力を委譲した。現在、大統領は、2003年4月の選挙で再選されたオルセグン・オバサンジョである。

■保安システム

 ナイジェリア政府は、1998年中、独裁体制からある程度民主的な統治形態に移り、新政府が1999年前半に編成された。1999年前半、サニ・アバチャ将軍が統治し、その下では、重大な人権侵害が観察された。6月、アバチャが死去し、連邦共和国形態の 地方分権民主主義の回復を規定するプログラムを始動させたアブルサラム・アブバカル将軍が彼を引き継いだ。形式上、政府は、軍事独裁下のままである。

 アバチャ体制の最後の数ヶ月、政府は、強力な保安システム(軍、国家保安庁(State Security Service − SSS)、国家警察、並びにその他の国家及び地域戦力機構)の助けで直接統制を続けた。新政府は、これら各種機関を支配し続けた。秘密機関は、市民の権利を侵害し続けたが、アブバカルの権力掌握後、これらの事例は著しく減少した。しかしながら、 殺人、拷問等の事実が残されている。刑務所内の条件は悲惨で、多くの囚人は、服役中に死亡している。

 この際、特務機関は、定期的に、互いに戦い始めている。例えば、1997年、軍と警察の衝突の結果、北部のカノ市において、80人が負傷し、警官1人が死亡した。警察官は、マリファナを吸っていた兵士を逮捕しようとした。1997年5月、連邦航空局(Federal Aviation Authority)と空軍大統領任務部隊(Air Force Presidential Task Force)間の対立は、両機構の職員が互いに発砲し合うまでに達した。第3勢力である警察が介入し、射撃を停止させたため、負傷者はいなかった。

 汚職は、ナイジェリアの国家機構の全レベルを破壊した。特にこれは、麻薬と関係している。政府は、麻薬対策の公然行為を試みているが、成果がないままである。この際、ナイジェリア政府は、麻薬の国内市場の存在を否定し、ナイジェリアが欧米への積み替え地点でしかないと主張している。

■ナイジェリア保安機構

 1976年から1986年の間、ナイジェリアにおける国内保安の保障任務は、ナイジェリア保安機構(Nigerian Security Organisation − NSO)(大統領に従属する中央国家機関)、内務省、国家警察及び国防省間に分割された。この際、NSOは、その存在の10年間、国内外の保安を保障した。

 1970年代末から、軍人独裁者は、弾圧を承認した。ナイジェリアが一党制国家に変わった事実は、他のアフリカ諸国のように、政治闘争のかなり民主的な実践をもたらした。しかしながら、70年代初め、 人権遵守領域における「無垢な日々」は終わった。

 ヤクブ・ゴヴォン少将の人気が落ちるや否や、特にその回復のために、彼は、1976年に文民に権力を委譲することを約束したが、彼宛の非難は強まるばかりだった。彼は、最も明らかな反体制派を不定期間拘留することで、これに対応した。オバサンジョと彼の政府は、この傾向を続け、1976年のNigerian Security Organisation創設後、人権侵害が頻繁になった。第2共和国(1979〜83)時の憲法政権の復活は、弾圧を減少させたが、警察とNSOの影響力の増大は維持された。

 この際、政府は、NSOに大きな力を与えただけではなく、人権を直接侵害する布告も採択された。 最も有名なのは、裁判なしに、国家安全を害する疑いのあるいかなる者も告発することをNSOに許可した(当初、 拘束は3ヶ月間のみで実施されたが、後にこの規定は取り消された。)1984年の国家安全に関する布告第2号(Detention of Persons)である。この布告により、多数の人々が、「敵」と宣告され、NSOの監獄に放り込まれ、拷問を受けた。

 バンバギダが1985年8月にブハリを打倒したとき、彼のスローガンの1つは、市民権回復の訴えだった。新体制は、自らを人権擁護者と宣言し、この政府により採択された多くの法律は、事実上、状況を緩和した。多くの反体制派が、刑務所から釈放された。

 1986年6月、バンバギダ(Babangida)は、NSOを解散し、ナイジェリアの特務機関を再編する布告第19号を公布した。その本文に従い、国家安全保障担当調整官室の下、3つの独立組織が創設された。国家保安庁(State Security Service − SSS)は国家保安を、国家情報局(National Intelligence Agency − NIA)は対外諜報及び対スパイを、国防情報局(Defence Intelligence Agency − DIA)は国内外の軍事諜報を担当する。形式上、この再編は、その元長官ウマル・シンカフィ(Umaru Shinkafi)によるNSOの活動の内部調査の成果となった。

 改革にも拘らず、新しい特務機関は、90年代初め、違法な方法を使用し続けた。政府は、NANS及びAcademic Staff Union of Universities(大学教授及び講師の主要組織)のような各種過激派を追跡し続けた。事実上、布告第2号が復活し、多くの罪のない市民が、それに基づき拘束された。この際、未決勾留期間は、1990年1月、6ヶ月から6週間までに減らされた。

 その結果、多くの反体制活動家は、以前と同様、拘置に処せられた。その外、プレスも、特務機関側から圧力を受けた。例えば、1988年、Newswatchが6ヶ月間閉鎖され、ジャーナリスト宛の脅迫事例があった。90年代、状況は変わらなかった。1997年11月4日、The Newsの軍事通信員アエトクンボ・ファカイエが逮捕された。同年11月8日、The Newsの発行人ジェンキス・アルモナが、ラゴスのテレビ局で直接SSSの捜査官により逮捕された。翌日、Tell誌編集部を監督するオノメ・オシフォ-ヴィスキが、子供と協会に行くときに逮捕された。更に10月29日、オシフォ-ヴィスキは、彼と27人の正職員を脅迫する手紙を受け取った。11月16日、SSSの将校は、News/Tempo発行人ババフェミ・オジュダを逮捕した。これで、ジャーナリストの逮捕は止まらなかった。ちなみに、これらの逮捕には、SSS職員だけが参加したわけではなく、1997年12月28日、軍事情報局DIAの捜査官は、Diet紙のジャーナリスト4人を拘束した。3人は翌日釈放されたが、発行人は、年末まで拘束された。

■英諜報部のプレゼンス

 リチャード・トムリンソンの本「大崩壊」から:

 ・・・全世界には、約50ヶ所の支局が存在する。その規模は、英国の利益に対する受入国の重要性が反映する。ジュネーブ、モスクワ、ウィーン、ニューヨーク及び香港等、世界のスパイの都の支局は、 その構成下に、5人の諜報員、3〜4人の技術者及び半ダースの秘書までを有し得る。西欧の大部分では2〜3人、第三世界では、通常、1人の諜報員と秘書が働いているが、例外が存在する。例えば、ジャカルタでは、インドネシアが英国の軍事産業にとって有益なクライアントである以上3人が、ラゴス(ナイジェリアの首都) でも、ナイジェリアの石油産業への英国の関心のおかげで3人が働いている・・・。

活動

 2001年3月5日、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンの招請により、ナイジェリア大統領オルセグン・オバサンジョがモスクワを3日間公式訪問した。会談の目的は、両国間の経済協力拡大の両国家元首の希望である。両国家元首は、石油・ガス資源の利用案、並びに航空領域における協力の可能性を審議した。ナイジェリアは、最近、ロシア製ヘリの調達の意図について表明した。駐モスクワ・ナイジェリア大使館によれば、訪問は、ロシア側の招請により実施され、両国関係の発展史において初めての同レベルの訪問である。

 2001年12月24日、ナイジェリア法務相/検事総長ボラ・イゲが、イバダンの自宅において死体で発見された。イゲの死は、公式だが、オルセグン・オバサンジョ大統領の顧問の1人 によって特命で確認された。事前捜査情報によれば、前日10時頃に死亡した。

 2001年1月31日、北東部の一連の警察署は、金銭給与の増加を要求するストを始めた。しかしながら、ナイジェリア全土の警察官も、この行為を支持した。その結果、警察の代わりに、ナイジェリアの法秩序は、軍部隊が維持している。同国最大の都市ラゴスでは、大規模騒擾が認められた。ナイジェリア政府は、警察官の行動はストではなく、反乱であると表明した。

 2002年10月4日、「ナイジェリアでは、1人も石打の刑に処せられないだろう」と、イスラム法に従い姦通の実行に対してこの残虐な刑罰を言い渡された人々を安心させようとして、ナイジェリア大統領オルセグン・オバサンジョは約束した。オバサンジョは、10月3日、ナイジェリア独立42周年の国民へのメッセージ時にこのような表明を行った。大統領は、 シャリアート法によりこの刑罰を言い渡された者が最高審に上告できることを保証した。「一方、控訴審は、公正さを保証するだろう」と、国家元首は断言した。「我々は、この結論に関して、ナイジェリア人とナイジェリアの友人と安心を完全に分かち合い、我が同胞の誰かが石打による死刑にかけられることを想像すらできない。このようなことは、決してないだろう」と、彼は付け加えた。オバサンジョの表明は、 イスラム裁判所により石打による死刑を言い渡された女性、アミナ・ラヴァリの特赦を要求する国際社会側からの増大する圧力の条件下で行われた。

 2002年11月26日、その住民の大部分がムスリムであるナイジェリアのザムファル州において、本日、その結果約200人が死亡したキリスト教徒とムスリム間の衝突を誘発した「ミス・ユニバース」に関する記事の著者、This Day紙のジャーナリストの処罰を訴えるフェトバが布告された。2002年11月16日に記事を発表した記者は、預言者ムハメッドが、その開会が同年12月7日 にアブジャ市で行われるはずだった「ミス・ユニバース」参加者の中から自分の妻を選んだはずだという推測を述べた。このことは、記事の内容をイスラムにとって侮辱的であると評価したムスリム共同体の憤激を引き起こした。州当局代表ウマル・ダンガラジムの言葉によれば、イスラムは、預言者ムハメッドを侮辱する何人にも死刑を指示しており、ジャーナリストは、処罰されなければならない。フェトバ実施に関する決定は、21のイスラム組織が参加した会議中に州当局により採択された。フェトバとは、ムスリム諸国における何らかの行動又は現象のコーラン及びシャリアートへの一致に関する最高宗教権威の法的結論である 。

上へ ナイジェリア空軍 ナイジェリアの情報機関

最終更新日:2003/09/10

広告 [PR]  再就職支援 冷え対策 わけあり商品 無料レンタルサーバー