CIAのパレスチナ冒険

ルースキー・ジュルナール、2002年6月5日

■CIA長官ジョージ・テネットの近東諸国周遊

 テネット周遊の主目的がパレスチナの未来の戦力機構に関する交渉である以上、我々は、「パレスチナ」方面でのその活動に充てられたアメリカ諜報部の余り知られていない歴史の1ページを 少し明かすことに決めた。恐らく、この叙述は、現代史のいくつかのエピソードに新たな光を当て、非常に予期せぬ結果を引き起こすだろう。初めて公開される多くの事実が、最終的に、半世紀以上続くイスラエル・アラブ紛争においてCIAが特にいかなる役割を演じ、このことから、将来何が出てくるのかを明らかにすることも排除できない。

 アメリカ諜報部は、70年代前半以前にパレスチナ人との協力を開始したと考えられている。しかしながら、実際には、CIAは、遥か以前に、近東でのその秘密活動において、「パレスチナ」要素を装備した。

 1967年夏にイスラエル人の手に渡ったナブルス(シュヘム)のヨルダン軍事情報庁支部の文書によれば、パレスチナ人組織の活動分子と米対外諜報部の最初の接触は、50年代初めに遡る。当時、ワシントンは、モスクワとの将来の対決前夜に、ロンドンとパリの場所を自分が占めるために、地域における英仏帝国主義を葬ろうとしていた。

■有益な関係

 当時CIAカイロ支局を指揮していたセオドア・ルーズベルトの孫、カーミット(後に、1953年夏、イランのモハメッド・モサッドゥイク政府の打倒に参加した。)は、英国人と結び付いたファルク国王に反対する多くの政治勢力と関係を維持した。1951年夏、彼は、英国の独裁と若きユダヤ人国家の野心に対する王政の無力さに不満なエジプト軍の青年将校団と接触を確立した。1952年7月、ムハメッド・ナジブとガマル・アブデリ・ナセルが率いる「自由将校団」は、CIAの助けにより、権力を奪取し、スエズ運河地帯からの英軍の撤退を著しく早めた(1954年秋、しかるべき英埃協定が署名されたが、米国が英仏の支援を拒否した「スエズ戦役」後、ナセルにより破棄され、1956年11月、カイロとロンドン間の外交関係が断絶した。)。

 50年代初め、CIAは、軍事層における反対派との連絡に止まらず、エジプト特務機関にも大きな注意を向けた。この関係において非常に価値あるサービスを提供したのは、1945年夏に米国に連れ出され、1956年春までCIAの常時監督下に置かれていた元参謀本部「東部外国軍」情報局長ラインハルト・ゲーレンの部下達だった。新しい自分のパトロンに多くの恩義を受け、ゲーレンは、彼の部下が有した(元ナチス特務機関将校と一部外務省職員)ソビエト連邦についてだけではなく、広範囲な情報をアメリカ人に手渡した。このおかげで、CIAは、周知の通り、最も広範囲なエージェント網の1つをこの地域に有していた第三帝国の近東の遺産を多く手に入れた。有名な「ゲーレン機関」の助けにより、アメリカ人が1945〜46年にエジプト、レバノン、シリア及びイラクに亡命した数百人のアブヴェール及びSD将校への出口を得た以上なおさらである。その多くは、氏名をアラブ式に変え、新しい文書を入手して、最近建国された近東の独立国家の戦力機構の創設に参加した。ちなみに、ほぼ当初から、元ナチス将校の新しい土地への「順応」には、「アラブ・ドイツ移民問題センター」(近東方面における有名なオデッサ機構の1つ)だけではなく、CIAの地域支局も協力した。ゲーレンの関係に頼りつつ、アメリカ諜報部は、アラブに定住した多くのドイツ人移民を協力に引き込むことができ、後に、英仏の帝国主義と王政に反対するプチブル民族主義運動の活性化において重要な役割を演じた 。

 地域からの欧州の「同盟国」の追放に関するワシントンの計画においては、東洋における英国のプレゼンスの主要な橋頭堡の1つであったハシム王国におけるロンドンの立場(特に、アラブ軍団の設立者かつ司令官、伝説的な英国の将軍、ジョン・ベゴト・グラブ-パシャのため)の破壊に特別な意義が付与された。

 そのような状態を変えるためには、英国人に依存するアブダッラ国王を打倒するか、少なくとも、彼に親英指向を改めさせられる政治集団を創設するか、ヨルダンに既存の集団を支援する必要があった。ゲーレンの助けで、ルーズベルトがエジプト総合保安庁長官ハミド・アス-スレイマン(過去、SS大佐ヘンリッヒ・ジリマン)と会見した後、CIAは、エルサレムの高僧ハジュ・アミン・アル-フセインの側近への出口を得た。戦時、彼は、ナチスと密接に協力し、その終焉後、エジプトに落ち着き、ハシム国王に対して極めて敵対的な立場を占めた。1948年のイスラエル・アラブ紛争後、同族中における高僧の影響力が 実感されなかったにも拘らず、ヨルダンのこの地区の統治に反対するヨルダン西岸の 過激な若干の住民は、彼を支持し続けた。彼らは、今や、アメリカ人にも役立った。アブダラから解放され、英国製の王室を破壊しようとして、1951年7月、東エルサレムのハジュ・アミンの親族及び支持者に頼って、CIAは、王政の排除を組織した。しかしながら、この一歩は、ワシントンに所望の結果をもたらさなかった。死亡した国王の息子タラルにより布告されたアンマンの対外政策方針の変化は、短期的なものだった。1953年春の英国ハロウ士官学校の卒業生、フセインの即位と共に、 全ては、元の鞘に戻った。

■イスラム主義の構築

 エジプトの「ムスリム同胞団」の反政府活動の豊かな経験を考慮して、当時のCIA長官ウォルター・ベデル・スミス(戦時、北アフリカ及び地中海で勤務し、1946〜49年、駐ソ連米大使)の勧告により、フセイン国王の打倒を指向し、並びにヨルダンにおける英国の利益に反対するパレスチナ人のイスラム組織を創設することが決定された。つまり、1952年2月、この少し前にカーミット・ルーズベルトの職員により 徴募されていたハジュ・アミンの密使、イブライム・サムハダナが、ガザ地区から東エルサレムに到着した。聖なる都市において、高僧とCIAの使者は、エルサレムのタキ・アド-ディン・ナバーニ師と数回会見した。過去、彼は、アル-フセインの側近の1人だったが、戦後、「ムスリム同胞団」現地支部の隊列に入った。しかしながら、暫く後に、彼らと同組織の指導者間に、根本的な相違が生じ、タキ・アド-ディンは、「同胞団」を離れた。

 サムハダン・ナバーニとの会見時までに、彼は、ムスリムの宗教とイスラム原理主義の思想の研究及び流布に関する小さなサークルを率いていた。 彼の同志達は、理論問題と現地ムスリム共同体の緊急問題の審議のために、エルサレム又はヘブロンに定期的に集まった。 高僧の密使の出発後間もなく、ナバーニのサークルに、非常に精力的で、非凡なニメル・アル-ミツリが加わった(後に、彼は、PLO執行委員会委員となる。)。特に彼は、多くの点で、未来の組織の形成に影響した。アル-ミツリは、イスラム教義の現状 に実際に影響を与え、並びにシオニストの簒奪者に対する早期報復を保障することは、強力かつ良く組織された政治機構の存在の下でのみ可能であることを、新しい同志達に説き伏せた。それ故、1952年秋、ナバーニのグループのメンバーは、独自の宗教政党の創設について決定を採択した。その主目的として、ハシム王朝の打倒と真のイスラム国家の創設が宣言された。この後間もなく、タキ・アド-ディンと彼の盟友のグループは、ヨルダン特務機関により拘束され、その後、当局は、彼らの逮捕の理由をプレス上に公表した。公表された報道では、特に、当グループの活動の制限が先ず第1にその反国家指向により引き起こされたと指摘された。「彼らの目的は権力奪取であり、彼らの方法は、教唆と扇動である」。当局は、宗教活動に対して何も含むところはなく、「自分の陰謀目的のカバーとしてイスラムを利用する」反政府勢力とのみ戦いを行っていることが強調された。

 50年代中盤までに、ヒズブ・アル-タフリルは、西岸の農村地にかなり多くの信奉者を有し、1954年10月、その活動分子の1人、アフメド・ダウル師は、ヨルダン議会(1958年、彼は、代議員資格を剥奪され、反国家活動の嫌疑で逮捕された。)選挙に立候補すらした。彼の成功は、西岸だけではなく、全国でも党の影響力の更なる拡大を顕著に可能とした。ハシム王国の軍事諜報部の情報によれば、1955年春、ヒズブ・アル-タフリルは、ヨルダン全土で非常に活発に活動し、その主な中心地は、ヘブロン、ナブルス及びトゥリ・カルム市にあった。

■秘密兵器

 後に、組織の秘密機構に頼りつつ、その指導者達は、ハシム王国その他のアラブ諸国において、騒擾と反政府陰謀を再三組織した。その支持者のヨルダン当局に対する最も大規模な行動の1つは、1954年末にジェニンで起こった。1972年、この組織の戦闘員は、カイロの軍事技術アカデミーに対して襲撃を実行した(その後、ヒズブ・アル-タフリル現地支部長、パレスチナ人のサラフ・セリヤは、逮捕され、処刑された。)。1974年と1977年、並びに1993年と1994年、当組織の活動分子は、その領内における「真のイスラム国家」創設を目的としたヨルダンでのクーデター実行の試みに失敗した。70年代末〜80年代初め、ナバーニ師の信奉者は、シリアのハフェズ・アル-アサドの世俗体制とイスラム敵対派の武装対決に参加した。

 90年代、ヒズブ・アル-タフリルの英国、フランス、ドイツ、トルコ及びレバノン支部は、北カフカーズのバーブ教武装部隊に、非常に活発な支援を提供し、イデオロギー的にも、物資・財政援助にも現れた。パレスチナ人組織の元ロンドン支部長オマル・バクリ・モハマッドは、自分の盟友との相違のため、その隊列から追放され、独自の運動「ハラカート・アル-ムハジルン」を創設した。90年代後半、運動は、チェチェン及びダゲスタンにおける「聖なるジハード」の入用への寄付金集めだけではなく、レバノン、イエメン及びアルジェリア住民中での「聖戦」の義勇兵の募集にも参加した。

 90年代前半、ヒズブ・アル-タフリルの密使は、中央アジア諸国、特にキルギスタン及びウズベキスタン、並びにトルクメニスタン及び南カフカーズ管区でも、かなり活発な活動を展開した。その外、最近、ナバーニ師の信奉者は、アゼルバイジャン、ウクライナ、ベラルーシ領土にすら現れた。ちなみに、共同体対テロリズム・センター(ATTs)長ボリス・ムイリニコフFSB中将の言葉によれば、ヒズブ・アル-タフリルは、「CIS諸国の安全への潜在的脅威である。その主任務は、ムスリムの密集居住地におけるイスラム原理主義思想のプロパガンダである。カフカーズ及び中央アジア地域に特別な関心を現しており、その戦略目的は、イスラム・カリフ国の創設である」。

 今日、ベイルートに本部庁舎が存在する(指導者:アベド・アル-カジム・ザルム)この組織の支部は、事実上、全近東(特に、ヨルダン、エジプト、シリア、イラク及びチュニス)、並びに多くの欧州諸国(特に、英国、フランス及びドイツ)、合衆国自体ですら活動している。

 パレスチナ「領土」において、1967年からヒズブ・アル-タフリルの活動は、主として秘密に行われ、ほとんど気付かれなかったが、最近、その支持者達は、再び活発化した。この際、西岸の若干の地区において、彼らは、イスラエル軍の最近の作戦が 、その現地インフラに非常に著しい損害を与えたハマスの地位を占めようと試みている。パレスチナに対するワシントンの現戦略を背景に、ナバーニ師の信奉者のそのような行動は、アメリカの利益に一致している。同じことは、90年代末の北カフカーズ及び中央アジア方面、並びに最近のイラク及びレバノンでの彼らの活動についても言える。 ヒズブ・アル-タフリルの存在の全歴史に渡って、その活動分子が、ホワイトハウスの反イスラム政策を定期的に非難しながら、アメリカの施設に対する襲撃に一度も参加しなかったことが特徴的である。 それ故、かつて有名なアメリカ大統領の孫と彼のドイツの友人により傾けられた努力は、今に至るまで、埋め合わされている。

 何れにせよ、歴史的展望において、その秘密の反ハシム政策においてイスラム要素に賭けたCIAは、大誤算を犯した。今まで、アラブ世界には、1つの原理主義組織、言及した「ムスリム同胞団」のみが存在していた。同胞団は、エジプト国外にも著しい数の信奉者を有していたが、主として国内にその注意を集中させていた。その国外に最初の独自のイスラム組織を創設したアメリカ諜報部は、戦後、全近東へのイスラム原理主義の拡散と預言者の教えの政治化を促進した。50年が過ぎ、蒔いた種を刈り取るべき時がやって来た。

 同じような状況は、50年代、CIAが反王政クーデターの準備において財政支援を提供したガマル・アブデル・ナセルの場合に観察された。英国人をスエズ運河地帯から追い出そうとして、アメリカ人は、ソビエトの地域浸透への扉を開いた。

 それ故、近東における陰謀と策謀の最初の経験は、CIAにとって非常に公正なものとなった。我々が間もなく見るように、その後、アメリカ諜報部は、余りに何も学ばなかった。

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最終更新日:2004/03/15

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