CIAのパレスチナ「ドラマ」

ルースキー・ジュルナール、2002年6月14日

 自国の全世界的計画においてパレスチナ人を利用する始めたの失敗した試みは、当方面におけるCIAの活動の事実上完全な縮小をもたらした。50年代後半〜60年代初め、ラングレーは、パレスチナ人を近東政策の独自の要素としてではなく、ヨルダン、シリア、レバノン及びペルシャ湾岸諸国領土におけるいくつかの作戦への「需要」に適した補助「人材」と見ていた以上なおさらである。しかしながら、間もなく、この地球上のホット・ポイントにおいて急激に発展する状況の影響の下で、アメリカ諜報部の見解は変わった。その職員は、通常、彼らのメンタル面、ステレオタイプな世界観及び民族の夢を全く理解せずに、全近東に分散したパレスチナ人に再び「言い寄り」始めた。その関係には、彼らが代表する文明の克服し難い反目が反映した。このことは、相互の疑心と敵意を増幅しながら、新たな苦い失望を両者に再三もたらした。しかしながら、その相反性にも拘らず、CIAとパレスチナ民族運動は、血生臭い中東紛争とその解決の試みの無二の連れ合いとなった。そのような状態は、今日までも保持されている。

■宿命的な「近視眼」

 50年代中盤までに、CIAの「パレスチナ人」エージェントは、少数で、主として、ヨルダンの旧世代の宗教活動家、並びにレバノンの個々の犯罪「権威者」及び政党活動家から成った。ちなみに、当期間の近東におけるアメリカその他の西側諸国(特に、英仏)の橋頭堡は、特にレバノンの首都だった。CIAの未来の地域エージェントの養成の場の1つは、その多くの卒業生が後に、近東の政治、経済及び学術層において指導的地位を占めたベイルート・アメリカ大学だった。ここでは、その多くの活動分子がパレスチナ出身だった左翼又は民族派の各サークル及び組織の盛んな活動が行われていた。その最良の事例は、パレスチナ人のキリスト教徒ジョージ・ハバシュとワジ・ハダドにより設立され、アラブの多くの政党及び政治集団にとって孵化器となった「アラブ民族主義者運動」(「アル-カウミユン・アル-アラブ」である。奇妙でもないが、レバノンの事実上全ての政府及び財政機構に浸透したCIAは、そのような組織に余り注意を払わなかった。この関係におけるパレスチナ人の役割が、パレスチナ人青年中の内部プロセスにより引き起こされた「自律的な」現象ではなく、エジプト、シリア及びソビエト特務機関の活動の結果として、アメリカ諜報に見られていた以上なおさらである。CIAの「アラブ」課の専門家は、長い間、ベイルートとカイロの大学におけるパレスチナ人学生の熱い討議, クウェート及びカタールでの青年の秘密集会、アンマン及びダマスカス近隣の難民キャンプにおける民族思想の「使徒」の出現に気付かなかった。このようにして、アメリカ諜報部は、間もなく近東政策の重要な要素の1つとなったパレスチナ解放運動の誕生を「見逃した」。ベールに包まれた形ではあったが、1959年秋のプロパガンダ出版物「フィリャスチヌン」 の形によるファタハの組織の最初の出現、並びに5年後のPLO創設に関するアラブ諸国連合の決定ですら、CIAの特別な関心を引き起こさなかった。イスラエルに対するファタハの破壊工作・テロ行為(1965年1月)とイスラエル側からの報復行動の開始によって初めて、ラングレーのアナリストは、その後の「近視眼」が地域におけるアメリカの利益に高くつき得ることを認めた。実際、全てのパレスチナ民族運動 を率いることを運命付けられた組織の指導部、機構及びイデオロギーが、米国の利益とならないことが、当時までに既に定まっていた以上、彼らは、少し出遅れていた。

 ファタハの活動の主要方面、重要人物及び機構に関する情報の収集で、3年以上が流れた。徐々に、アメリカ諜報部は、自分の味方、主として、「ヒズブ・アル-タフリル」の元支持者をPLOの若干の職務に送り込むことができた。しかしながら、CIAは、従来通り、ファタハへの浸透に成功せず、この急速に勢力を集める組織のリーダーに出ることもできなかった。1968年春になって初めて、最初の慎重、かつ、かなり曖昧なその種の試みが着手された。

■アラファトに対するPR

 イスラエルの「パートナー」から、ヨルダン峡谷のファタハの基地に対する大規模作戦の準備について知り、CIAは、危険についてアラファトに警告することを決めた。このようにして、2つの目的の即時達成が、彼らの目の前に入った。何よりも、情報のそのような「漏洩」は、全地域の状況に反映し得るパレスチナ人、恐らくは、ハシム軍とイスラエル人の衝突を防止することができた。その外、CIAのアナリストは、ファタハ指導部がこれほど重要な情報を利用して、危険地区から味方を事前に撤退させることを確信していた。アメリカ人は、そのような一歩がアラファトによって善意の兆しと受け止められ、ラングレーと彼が率いる組織間の秘密接触の確立に好適な条件を創出することを期待した。結果として、1968年3月18日、アンマンにおいて、ヨルダン軍参謀総長アマル・ハッマシュは、ヤセル・アラファトと会見した。会談中、彼は、「アメリカの友人」の要請により、イスラエルの作戦準備について、パレスチナ指導部に警告することが彼に委任されたと、ファタハのリーダーに伝えた。

 しかしながら、今回も、CIAの「アラブ学者」は、乱暴に考えていた。パレスチナ人は、カラムの基地を放棄する意思を拒絶し、敵の戦車及び自動車化歩兵部隊との戦闘を受け入れた。損害にも拘らず、この事件は、間もなく、ファタハ支持者の英雄主義と勇気の象徴となった。時と共に、その記憶は、次世代のパレスチナ人が育てた伝説に変わった。アメリカ人からの善意の兆しを得ても、PLOの左翼派閥の盟友達が憤怒して反対したため、アラファトは、彼らと秘密接触に全く入ろうとしなかった以上なおさらである。こうして、アメリカ・パレスチナの秘密関係の継続する「ドラマ」は、米諜報部に苦い失望をもたらした。「ヒズブ・アル-タフリル」の場合と同様、CIAの行動は、期待とは全く逆の結果を招来した。というのも、カラムの事件は、パレスチナ人中だけではなく、アラブの指導者の目にも、ファタハの権威を急上昇させ、近東の政治の舞台におけるヤセル・アラファトの立場を顕著に強化した

■CIAのアラブの友人

 1973年の最後の審判の日戦争の終結により、エジプト大統領アンワル・サダトは、ユダヤ人国家との和平調停を達成する意図について宣言した。「全てを包括する」ために、カイロは、PLO指導部も含めて、近東紛争の全関係者を来るべき交渉に引き込もうとした。しかしながら、間もなく、アメリカ国務長官ヘンリー・キッシンジャーの忠告により、エジプトの指導者は、独自の計画を却下し、その後、イスラエルとの対話へのパレスチナ人の参加への関心を失った。結果として、アラファトと彼の側近達には、このようにして、サダトがベギンと単独和平を締結する準備をし、更にヨルダンのフセイン国王がその事例に続くという重大な懸念が現れた。そのような事態のシナリオは、地域調停の枠外に残されるだけではなく、一般に近東政策のアウトサイダーに変えることでPLOを脅かした。全ての手がかりがワシントンに続いていることを理解して、ファタハのリーダーは、CIAと秘密接触を取ることに決めた。結果として、1973年12月から、この諜報機関の近東叙事詩における新たな期間が始まった。その時から今日まで、CIAは、パレスチナ人、ワシントン及びイスラエル人間の秘密外交ルートの役割を演じている。国務省の固有の領土に侵入しつつ、その後、ラングレーは、宿敵を仲介、説得、仲裁させ、地域におけるその使節団は、決して、「狭義」の諜報機能にのみ留まったわけではない。

 このようにして、1973年末、CIA副長官バーノン・ウォルターとの会見のために、41歳のスパイのエース、類稀な冒険家、「党名」アブ-ハサンで知られるPLO議長の私的代理人が、秘密裏にワシントンに到着した。この人物は、パレスチナ民族運動の全歴史において最も鮮やかで、謎めいた人物の1人で、この人物の本名は、アリ・ハサン・サラマである。 彼は、同時に、冒険的な金融の策士、熟練した破壊工作員かつ老練なプレイボーイだった。自分の多数の盟友とは対照的に、彼は、 「モサド」のエージェントから難民キャンプの悪臭のする下水道に逃れず、南レバノンの山地に隠れなかった。アブ-ハサンは、欧州の首都の最良のホテルを必ず選び、豪華なアメリカ車でベイルートを走り回り、昔から東洋の美女の寵児だった。彼の愛人の正確な数は、イスラエル特務機関ですら特定できず、彼の第2夫人、悩殺的なジュルジナは、1970年、「ミス・ユニバース」のタイトルを得ていた。この重要な事件の数年前、彼女の未来の伴侶は、ファタハの主要諜報機構を指揮し、その後、全組織の秘密財政業務も首尾よく手に収めた。彼の敏感な監督の下、何百万ドルもの額が、以前よりも効果的に「革命闘争」に使用され始めた。しかしながら、 そこから、スイス及びモナコの銀行のアブ-ハサンの個人口座にいくら消えたかは、今に至るまで謎のままである。PLOの第一人者の警備のためにエリート部隊を創設し、彼は、アラファトの無限の信任を得、そのおかげで、彼の側近の狭い層に入った。美しいジュルジナと結婚し、アブ-ハサンは、有名な「黒い9月」を設立し、ミュンヘン・オリンピックでのイスラエル人スポーツ選手の略取に関する作戦を上手く準備した。「モサド」により最も捜索されているファタハの活動分子の1人であり、KGB及び「シュタージ」との関係を維持しつつ、彼は、ラングレーのNo.2との会見のために、米国に静かに出国した。

 何故、アラファトがこれほど歴史的な任務を特に彼に委ねることを決めたのかは、正確に語ることはできない。しかしながら、アブ-ハサンの父は、パレスチナの武装集団のリーダーで、30年代〜40年代、戦時中第三帝国の全近東政策を担当したフリッツ・グロブ博士と関係を維持し、ユダヤ人及び英国人との闘争資金すら受け取っていたことが知られている。1948年、大サラマが死去し、彼の息子は、ハジュ・アミン・アル-フセイン(ちなみに、アブ-ハサン・サラマの最初の妻は、 尊敬すべき高僧の親戚に当たる。)の文字通りお膝元であるエジプトの首都で養育された。

 1979年1月のアメリカの主要パートナーである「モサド」職員の手によるその死に至るまで、アブ-ハサンは、CIAとファタハ間の主要連絡環であった。70年代中盤、彼は、ラングレーの私的な来賓であり、PLOの歴史と近東情勢に充てられたいくつかの講義すら行った。1975年のレバノン内戦開始と共に、サラマは、CIAの現地支局長ロバート・クレイトン・エイムズと常時連絡を取りつつ、駐ベイルート米大使館の安全を保障した。市が敵対するキリスト教徒とムスリムの集団間の真の戦場に変わった後、アブ-ハサンは、そこから全アメリカ市民を救出するのを助けた。

 感謝の印として、CIAは、イスラエル人の追跡からアブ-ハサンを再三救ったが、結局、「モサド」は、アメリカのパートナーも負かした。

 目撃者は、エイムズがアリ・サラマの死について知ったとき、彼が長い間、聞いた話を信じられなかったと語っている。100%の確認を受けて、CIAレバノン支局長は、長い間、 潰れた「Davidoff」の箱を取り出そうとして、自分の背広のポケットをかき回した。一服した後初めて、彼は、低い声を発した。「彼の名において、アメリカは、アラブの真の友人の1人を失った」。

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最終更新日:2004/03/15

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