CIA−KGBのパレスチナ「レース」

ルースキー・ジュルナール、2002年6月27日

西側は、以前から、冷たく、秘密で、他人の手によるものである限り、全方面で大規模な戦争を我々に対して展開した。

アレクサンドル・ドロズドフSVR退役大佐

 20世紀70年代〜80年代の間、近東は、共産主義と西側ブロックの主要な対決の舞台の1つであった。米ソが等しく直接武装紛争を避けた以上、その主要手段は、 第三世界諸国での影響力を巡る争いにおけるスパイ行為、心理戦及び秘密の陰謀だった。後者は、周知の通り、主として、ラテン・アメリカ、アフリカ大陸及び近東に存在した。

■期待されたパートナー

 当時までに、列挙した全ての地域において、PLOは、既に非常に堅固な立場を有していた。例えば、ラテン・アメリカでは、常に成長するパレスチナ人移民共同体、並びにここに住み着いた若干のPLOの活動家の倦むことのないエネルギーが、これを可能にした。彼らの古典的な代表は、1963年から1972年までチリ、ブラジル及びアルゼンチンで働き、後に国連においてパレスチナの利益を擁護したスペイン語話者のズフディ・ラビブ・タラジだった。同時に、PLOの特殊機構は、キューバ諜報部、並びにラテン・アメリカの多数のテロ組織(ニカラグアの「サンディニスタ戦線」、エルサルバドルのFMLN、ボリビアのELN等)と関係を確立した。

 一連の国家体制、特にリビア及びアルジェリアが、同組織の各種派閥を公然と支持したアフリカにおいて、PLOの立場は、更に確固たるものだった。70年代、PLOがオブザーバーとしてアフリカ統一機構に加入し、この際、地域、例えば、ナミビア(独立獲得まで)及びアンゴラのゲリラ集団と非常に密接な関係を確立した以上なおさらである。

 近東について言えば、ここで記述される期間、「パレスチナ問題」は、全地域の政治的雰囲気を左右する問題の1つとなった。このようにして、PLOは、局地機構の枠内から出て、国際政治において著しい重みを獲得した。それ故、両ブロックがこれほど広範囲かつ強力な組織に対する影響力を巡って互いに競争したのは、驚くべきことではない。ワシントンは、事実上モスクワと同時に、この必要性に気付いたが、ソビエト指導部は、カイロの仲介のおかげで、ファタハ、後にPLOと接触を確立するのが遥かに簡単だった。結果として、ワルシャワ・ブロックの特務機関は、パレスチナ人との協力の組織において、西側の敵、特にCIAに著しくリードしていた。アメリカ諜報部は、1973年末になって初めて、PLOと公然たる対話を始めたが、KGB、東ドイツの「シュタージ」、並びにルーマニアの「セクリターテ」の同組織との最初の接触は、60年代後半に遡る。

■モスクワのパレスチナの同盟者

 ワルシャワ・ブロックの諜報機関と最も密接な関係を維持したのは、「人民戦線」及び「民主戦線」のようなPLO極左派であった。彼らの接触は、レバノン、南イエメン及びキプロスにおいて最も頻繁に行われた。加えて、事実上、社会主義陣営の各特務機関は、その定員に、パレスチナ人との連絡責任者を有し、KGB(第1総局長アレクサンドル・サハロフスキー)、「シュタージ」(「A」総局第3課長マルクス・ヴォルフ)、「セクリターテ」(対外情報部長ミハイ・パセパ)指導部の一員も、PLOの第一人者と頻繁に接触した。1968年夏、ソ連が総額50万ドルのファタハ用の最初の武器を近東に送った以上なおさらである。1972〜76年、ソビエト連邦は、エジプトでの影響力を急速に失ったのと並行して、パレスチナ人との関係がますます密接になった。結果として、1974年夏、モスクワ(バラシハ)、ニコラエフ(プリヴォリノエ村)、オレンブルグ(トーツキエ・キャンプ)郊外、並びにトルクメンのマルィ及びシンフェロポリ市のKGB及びGRUの訓練基地において、例えば、国防省の「射撃」指揮要員訓練特殊課程でのPLOメンバーの教育が始まった。

 70年代後半、東欧及びイエメン人民民主主義共和国領土において、各種パレスチナ人組織とソ連特務機関の業務が活発化した。当時、同組織のリーダー、ヤセル・アラファト、その武装部隊総司令官ハリリ・アル-ワジル(「アブ-ジハード」の仇名でより知られる。)、並びに諜報機構の長アリ・ハサン・サラマとサラフ・ハラフ(「アブ-アヤド」)のようなファタハ指導部の著名人が、KGBとの関係を維持した。その上、後2者は、1973〜74年から、CIA高級幹部とも関係を確立した。その中には、副長官ベルノン・アントニー・ウォルターズ(1973年7月から9月まで、長官職を代行)、ヘンリー・ウォルター(CIA長官スタンフィールド・ターナーの補佐官)及びレバノン支局長ロバート・クレイトン・エイムズ等、同組織の最高指導部に属する者もいた。その結果、ワルシャワ・ブロック諸国の情報共同体は、中近東及び北アフリカにおける米国の秘密政策に関するもう1つの非常に価値ある情報源を得た。つまり、例えば、言及したサラフ・ハラフは、エジプト・イスラエルの和平協定署名に先立つワシントンとカイロ間の秘密交渉の詳細について、「シュタージ」に個人的に通報した。実際、 社会主義陣営の特務機関に最大の利益をもたらしたのは、ファタハの活動分子ではなく、イデオロギー的により「進歩的な」極左パレスチナ人集団代表だった。当然のことながら、アメリカ人は、PLOとの関係発展が 、極めてリスクが大きく、投機的な事業ですらあることに気付いた。しかしながら、CIAの専門家は、パレスチナ人との 関係の拒絶が、彼らの意見によれば、地域における米国の利益により大きな損害を与え得る以上、2つの悪の内、より小さな悪を選んだ。ラングレーは、あらゆる手段をもって、パレスチナ民族運動に対するモスクワの影響力 を無力化しようと試み、PLO隊列における社会主義陣営のエージェントの摘発、再徴募、時には除去に莫大な資金を費やした。全戦線における「悪の帝国」に対する「十字軍」を宣言した共和党の権力掌握と共に、CIAには、 遂に宿願を達成する待望の機会が現れた。

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最終更新日:2004/03/15

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