マフムド・アル-フヌド

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 現在、シャバクは、ハマスの活動分子13人に対する取調を行っている。彼ら全員は、 昨日の朝、シュヘム北方のアシル・アシュ-シャマリア村で拘束された。もう1人の被拘束者は、夜までに釈放された。イスラエル特務機関の情報によれば、拘禁中の残りの大部分は、その拘束に至るまで、マフムド・アブ-フヌドとの常時連絡を維持していた。この際、彼らのテロ活動及びアブ-フヌドとの関係に関する全情報は、シャバクの「アラブ課」に絶えず入った。特にこの特務機関の高度なプロ職員のおかげで、昨日のテロリスト逮捕に関する作戦は、極めて迅速かつ非常に上首尾に行われた。

 

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 マフムド・アブ-フヌドは、1967年生まれ、アシル・アシュ-シャマリア村出身である。ビル-ゼイト学校(ラマラ北方)で中等教育を受けた。アブ-フヌドは、1988年3月(インティファーダ4ヶ月目)にハマスの隊列に入った。この後、彼は、ツァハル軍との衝突に積極的に参加した。腹部を負傷し、アブ-フヌドは、イスラエル兵により拘束された。治療を受けた後、彼は、禁固1年を言い渡され、軍刑務所「メギド」に収監された。1992年12月、彼は、ハマス及び「イスラム・ジハード」の他の活動分子と共に、イツハク・ラビン政府の決定により、レバノンに追放された。アシル・アシュ-シャマリア帰還後、アブ-フヌドは、ハマス戦闘部門の別の活動分子ムヒ・アド-ディン・シャリフを通して、イヒエ・アイアシャ(技師)のグループと協力を確立した。

 当時、アブ-フヌドは、シュヘマ地区において、アイアシャのグループのために、戦闘員の徴募に参加した。未来の自爆テロリストの候補者は、主として、アン-ナジャフ大学の学生から選抜された。1994年末、アブ-フヌドは、「アズ・アド-ディン・アル-カサム」のメンバーとなり、間もなく、自分の村において、同組織の細胞を指揮した。当初、彼には、5人だけが従った。アブ-フヌド・グループは、1995年に最初のテロ行為を行った。当時、彼の戦闘員は、カラシニコフ自動小銃でツァハルの自動車を射撃し、軍医とその運転手を負傷させた。同年、マフムドは、ユダヤ人入植者とツァハル兵士に対して、更に2回のテロ行為を組織した。この後、彼は、イスラエル特務機関により作成された最も危険なテロリストのリストに入った。イヒエ・アイアシャの除去後、1996年1月、アブ-フヌドは、数年間、既に言及したムヒ・アド-ディン・シャリフ及びアヴダッラ兄弟(3人全員は、当時、西岸の「アズ・アド-ディン・アル-カサム」指導部に入っていた)と協力した。同期間、アブ-フヌドは、イスラエルの民間施設に対するテロ行為の計画立案及び準備に参加した。1996年、パレスチナ暫定自治政府の特務機関は、シュヘマにおいて、アブ-フヌドが指導していた爆破装置の地下生産研究室を無力化した。彼は、1997年7月及び9月 に実行されたエルサレムの「マハネ・イエグダ」市場及びベン・イエグダ通りでのテロ行為に関与した。当時、約20人が死亡し、300人以上ガが負傷した。ムヒ・アド-ディン・シャリフ(1998年3月)とアヴダッラ兄弟(同年9月)の死亡後、アブ-フヌドは、ヨルダン西岸におけるハマスの戦闘部門を指揮した。この際、彼は、ガザ地区のハマス戦闘員を指導していたムハメッド・デイフと密接に協力した。アブ-フヌドは、1999〜2000年に起こったハイファ、トヴェリヤ、ネタニヤ及びハデルでの数件のテロ行為の準備の背後にいた。その年の5月にムハメッド・デイフが逮捕された後、「アズ・アド-ディン・アル-カサム」の最も捜索されている活動分子の内、健在かつ自由だったのは、アブ-フヌド1人だけだった。事実上、ハマス唯一の軍事指揮官となり、彼は著しく活発化した。運動の政治部門、並びにその国外支部(先ず第1に、シリア及びイラン)とその行動を常に調整しつつ、アブ-フヌドは、イスラエルの民間施設に対する一連の大テロ行為の準備に従事した。このようにして、ハマス指導部は、状況を急激に不安定化させ、イスラエル−パレスチナ交渉に影響を与え、並びにアラファト行政府の立場を最大限破壊することを計画した。

 2000年4月、アブ-フヌドの戦闘員は、ユダヤ人入植地エロン・モレ近くでテロ行為を実施し、その結果、イスラエル人少女が負傷した。アブ-フヌドの専門家は、アシル・アシュ-シャマリヤに位置した特殊な秘密研究室で、テロ行為のための爆発物を準備した。同年7月、研究室は、ジブリル・ラジュブの「アル-アムン・アル-ヴィカイー」職員により無力化された。そこでは、爆破装置の威力向上のために使用される4t以上の化学物質が発見された。この外、一斉検挙の過程において、アブ・フヌドの戦闘員の4分の1が拘束された。この研究室の外、同年中盤までに、アブ-フヌドの管轄下には、パレスチナ暫定自治政府とイスラエルの若干のアラブ人地区(特に、エルサレム北部と東部)を取り巻くハマスの戦闘部門の広範囲なインフラが存在した。ここで、アブ-フヌドは、ヘブロン出身のアブド・アル-ハルク・ナトシェが長に立つ「ヨルダン西岸委員会」の支援に頼った。この委員会は、ハマスの政治指導者、ムサ・アブ-マルズク及びハレド・マシャリのヨルダンからの追放後、1999年8月に創設された。委員会の活動は、ハマスの宗教指導者アフマド・ヤシン師の完全な支援の下で実施されている。委員会の主要スポンサーは、イラン特務機関(特に、「クワト・アル-コドス」)である。ナトシェの組織への財政援助は、ダマスカス近郊のアル-ヤルムフ・パレスチナ難民キャンプに居住するハマスのベテラン、イマド・アル-アラミを通して行われている。アブ-フヌドは、その活動において、パレスチナ国外の「ヨルダン西岸委員会」の関係を利用した。ナトシェの援助と共に、彼は、在イスラエル・アラブ人のイスラム運動の北部過激派との接触も維持した。8月末、ツァハル特殊部隊「ドゥヴデヴァン」兵士は、アシル・アシュ-シャマリヤ村において、アブ-フヌドを捕獲しようと試みた。しかしながら、彼は、追跡から逃れることができた(彼の補佐ニダル・ダルラスは投降した。)。短い戦闘過程において、アブ-フヌドは、手に数ヶ所の傷しか負わなかった。シュヘムまで到達した彼は、タウフィク・チラウイの「ムハバラート・アル-アンマ」職員に投降した。8月30日まで、彼は、現地の英国の病院に収容された。ツァハルのこの作戦の失敗後、ハマス隊列及び一般のパレスチナ人中におけるアブ-フヌドの人気は、急上昇した。ガザ地区のハマス議長マフムド・ア ル-ザハルは、この2日後、「マフムド・アブ-フヌドの救出は、全パレスチナ人民の大きな勝利である」と表明した。70人以上のパレスチナ人弁護士は、来るべき審理において、フヌドを弁護すると自発的に申し出た。9月初め、アブ-フヌドは、パレスチナの裁判所により、禁固12年を言い渡された。審理中、アブ-フヌドは、「私は、自分を犯罪者ではなく、イスラエルに対するジハードの戦士と考える」と語った。

 パレスチナ暫定自治政府当局は、イスラエルに対するテロ活動ではなく、自治政府の法律違反でのみ、フヌドを裁いたと指摘した。それと共に、アフマド・ヤシン師は、裁判所の決定を認めないと表明し、アブ-フヌドの釈放を要求した。ハマス指導部の他のメンバー、イスマイル・アブ-シナブは、「アブ-フヌドとは、国民的英雄で、パレスチナ全民族の象徴である。裁判にかけられなければならないのは、彼ではなく、その裁判官だ」と語った。回答として、パレスチナ暫定自治政府法務相ファラフ・アブ-マジヤンは、既決囚には刑務所を出ることが提案されたが、イスラエル特務機関に対する恐怖のため彼は拒否したと表明した。アブ・フヌドの家族、並びにハマスの代表は、この表明を否定した。判決後、アシル・アシュ-シャマリヤ村では、既決囚を支持する2千人のデモが行われた。「インティファーダ・アル-アクサ」開始後、パレスチナ暫定自治政府当局は、ハマスと「イスラム・ジハード」の数十人の活動分子を釈放した。しかしながら、アブ-フヌドは、拘束されたままだった。現在、服役中の彼は、事実上、完全な行動の自由を享受している。この際、彼は、イスラエル特務機関から確実に防護されている。アブ-フヌドは、ハマスの戦闘部門の戦闘員と連絡を維持し、イスラエルに対するテロ行為の計画立案に参加している。先週の日曜日拘束された同組織のメンバーは、今回のテロ行為を準備しつつ、特に彼の指示で行動した。

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最終更新日:2004/05/06

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