ハジュ・イスマイル

”サルスル”

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 中央軍管区司令官イツハク・エイタンとイスラエル国防相は、11月26日夜、ヨルダン西岸のパレスチナ保安軍司令官ハジュ・イスマイル大佐と会見した。

 会見は、ラマラ近郊のイスラエル・パレスチナ調整委員会(DCO)の建物で行われた。交渉中、両者は、衝突停止に必要な複合措置を審議した。この外、「領内」のDCO支部に対してパレスチナ人により実行された攻撃に関する問題について言及された。

 消息筋の情報によれば、会見は、好意的な空気の中で行われた。パレスチナ保安軍司令官は、ヨルダン西岸における紛争の事後のエスカレーションを防止するするため、彼が関係する全てのことを行うことを約束した。

 当会見の公表は、伝統的に影に回っていたハジュ・イスマイルに関する情報が外部に流れた希な事例の1つとなった。ムハマッド・ダーランとは異なり、彼は、最近、いくつかの事例においてのみ、イスラエルのマスコミによりさらりと触れられた。有名なジブリル・ラジュブは、事実上、最高レベルでのイスラエル・パレスチナ間の交渉の常時参加者だったが、イスマイル大佐は、公然と出現することを抑制することを好んだ。

 彼は、学術層と特務機関の狭い層の専門家、並びにツァハルの個別の高級将校にだけ知られていた上に、彼らには、この人物についての統一見解はない。しばしば、彼らの表現は、互いに矛盾している。若干の者は、彼を老練なテロリストかつ残酷な殺人者と考えている。他の者は、イスマイルがパレスチナ戦力機構で最も穏健な将校の1人で、イスラエルの潜在的な同盟者であると主張している。パレスチナ暫定自治政府内でも、彼は様々に扱われている。彼を臆病者かつアラファトの操り人形と呼ぶ者もいる。その敵対者達は、PLOでの経歴35年間、彼が一度も内紛で重大に傷つかなかったことを想起する。

■イスマイル・アル-ハジュ(サルスル)

 ディル・エル-バラフ居住区(ガザ地区中央部)出身、1943年生まれ。1965年、ヨルダンに移住し、H.イスマイルは、PLOの隊列に入った(当時の指導者は、アフマド・シュケイリ)。1967年、ファタハの構成員となった(指導者は、1968年からPLO議長となったヤセル・アラファト)。

 1968年1月、H.イスマイルは、ファタハの軍事部門「アル-アツィファ」(司令官は、ハリル・アル-バジル。別名アブ-ジハード)のメンバーとなった。1970年9月、フセイン国王の部隊とパレスチナ人の衝突に参加した(「黒い9月」として知られる事件)。同年10月、PLOの武装部隊の編成下において、レバノンに移住した。1973年、南レバノンに駐屯するファタハ部隊の副司令官に任命された(彼の直属の長となったのは、ムララ・ムハマッド・サイドである。別名アブ-ムサ)。

 レバノン内戦勃発後、1975年1月、H.イスマイルは、ベイルート南方の沿岸に位置するキリスト教徒の都市ダムルの奪取に参加した。作戦には、ジェノサイドとも言える平和的住民に対する懲罰行為が付随した。同年、シリア軍がパレスチナ人からの奪還を試みた海岸の都市シドンの防衛に参加した。同期間、シリア軍諜報部は、H.イスマイルの暗殺に数回失敗した。

 70年代末〜80年代初め、レバノン-イスラエル国境でのテロ行為の準備に参加した。ツァハルのレバノンへの部隊投入時(1982年6月の「ガリラヤ平和」作戦)までに、H.イスマイルは、「カステル」旅団を指揮していた。当時、これは、レバノンにおけるファタハ武装部隊中最大の部隊(5,000〜5,500人)だった。その編成下には、T-34戦車を装備する6個歩兵大隊が含まれた。旅団長の本部庁舎は、シドンにあった。

 6月6日、イスラエル軍は、シドン北方、ナフル・エル-アバリ川地区において、攻勢を開始した。H.イスマイルは、前線への出発を口実にして、市からレバノン北部のベッカー峡谷に逃走した。この際、ファタハ内部の若干の彼の敵は、シドンを捨て、H.イスマイルが自分の財産を持ち出したと主張した。6月7日、彼は、シャトゥラ村に現れ、イスラエル部隊により自分の旅団から分断されたと伝えた。

 この後間もなく、アラファトは、ファタハの野戦指揮官の圧力の下、H.イスマイルを旅団長から罷免し、将校の階級を剥奪した。しかしながら、アラファトと彼の関係は、1983年春に正常化した。同年5月3日、PLOの指導者は、H.イスマイルをレバノン中央部及び北部のファタハ軍司令官に任命した。この際、アラファトは、彼の職業的資質ではなく、先ず第1に、部下の個人的献身の理由により指導された。当任命は、ファタハの野戦指揮官中に激しい不満を引き起こした。1983年5月10日、これは、組織の全歴史において、最も強い蜂起の形を取った。蜂起者は、H.イスマイルの元上官、アブ-ムサが率いた。当初、アラファトは、不満者との会見に入ることを決めた。彼の指示により、H.イスマイルのシドンからの逃走に関する事件の取調委員会が設置された。しかしながら、その業務の成果は、結局、公表されなかった。

 1983年12月にPLO勢力がレバノンを離れた後、H.イスマイルは、アラファトにより、イラクに再配置された「アル-アクサ」旅団副旅団長に任命された。後に、彼は、ファタハの「パレスチナ国家解放軍」編成下の同旅団旅団長職を占めた。1989年8月、H.イスマイルは、アラファトの支持を期待して、ファタハの「革命会議」議員のポストに立候補した。無駄に終わった。

 イスラエル・パレスチナ間のカイロ協定署名(1994年5月)後、H.イスマイルは、アラファトの指示により、自分の旅団(850人)と共に、ヨルダンを経由して、エリコ地区(ヨルダン西岸)に到着した。彼は、同地区のパレスチナ暫定自治政府軍の司令官となった。1995年10月、アラファトは、H.イスマイルをエリコに本部庁舎を置くヨルダン西岸パレスチナ保安軍司令官に正式に任命した。

エリコ地区において、H.イスマイルは、イスラエルの保安戦力、先ず第1に、ツァハルとの関係樹立を担当していた。当初の段階において、彼は、ツァハル中央管区司令官イラン・ビランとの正常な関係を軌道に乗せることができなかった。当事情は、エリコ地区の安全分野において、イスラエル・パレスチナ関係に否定的に影響した。しかしながら、1995〜96年、ツァハル高級将校と彼の関係は、著しく改善された。特に、彼とイスラエル軍事諜報部アマン間で集中的な接触が確立された。この際、シャバク指導部は、当初から、H.イスマイルをほぼ完全に無視し、ヨルダン西岸の特務機関「アル-アムン・アル-ヴィカイー」長官ジブリル・ラジュブとの協力を選んだ。

パレスチナ側からは、H.イスマイルの任命は、 一定の憤慨と共に、かなり懐疑的に受け取られた。ファタハの多くの活動分子は、今に至るまで、彼の名前を包囲されたシドンからの恥ずべき逃亡と結び付けている。多くの場合、特に、H.イスマイルがパレスチナ暫定自治政府戦力機構の他の高級将校、先ず第1に、自分のボス、ナセル・ユセフ(総合保安庁長官)との正常な関係を確立できなかったためである。H.イスマイルは、当初、全ての指示をアラファトだけから受け取っていた。H.イスマイルは、パレスチナ暫定自治政府の戦力機構における最も忠実な指導者の1人と考えられている。

新しいポストにおけるH.イスマイルの主要ライバルの1人となったのは、ラジュブである。彼は、H.イスマイルからエリコ地区の実権を奪おうと再三試みた上に、 両者間のほぼ毎回の紛争において、H.イスマイルは、ラジュブに敗退した。

現地住民は、H.イスマイルにかなり好意的に接している。この際、多くの市民は、彼を比較的弱腰かつ優柔不断であると考えている。それと共に、90年代後半、エリコにおいて、H.イスマイルの汚職に関する噂が再三流布された。

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最終更新日:2004/04/29

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