カタールの情報機関

■機構

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捜査警察(ムバハザート):内務省の構成に含まれる。

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国家保安捜査局(ムバヒス):アミル・ディヴァンに直属。スパイ対策が任務に含まれる。

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軍事情報局(ムハバラート):テロリズム及び政治的反体制派対策も担当する。

■一般情報

 7世紀から、カタールは、アラブのカリフ制国である。13〜14世紀、同国は、バーレーン国の権力下にあった。16世紀初め、カタールは、ポルトガル人、後にオスマン帝国により奪取された。1916〜1971年、カタールは、 英国の保護下にあった。1971年9月1日、同国は、独立を得た。1981年、カタールは、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、オマーン及びアラブ首長国連邦と一緒に、ペルシャ湾アラブ諸国協力会議に加盟した。

 カタールは、世襲王制である。現在、国家元首は、シェイフ・ハミド・ビン・ハリファ・アル-タニ殿下である。内閣は、その大部分が、他のアラビア半島諸国と同様に、王家の一員から成る。現酋長は、クーデターの結果、実父を権力から追い払い、1995年に権力を掌握した。

 カタールの人口は、今日、50万人である。圧倒的多数は、アラブ人である。カタール人の90%以上は、マリク及びハンバル・マザフ派のスンニー派ムスリムである。カタールは、シャリアートの規定及び原則を基盤とする国である。カタール国の経済基盤は、石油及びガスの採掘及び加工が構成する。石油は、今日、国民総生産の30%を与えている。

  2001年12月、カタール酋長は、モスクワを訪問した。

■軍事基地

「アル・ウレイド」基地(Ikonos衛星の写真) 国内には、兵器、弾薬及び軍事資材の保管に利用されている「アル・ウレイド」米空軍基地(ドーハ地区)が位置する。その近代化には、過去数年間で、1億ドル以上が 投資された。滑走路には、100機までの軍用機が配備できる。基地は、最も近代的な通信及び完成システムを装備された。その外、イラク戦役時、米中央軍司令部は、サウジアラビアからカタール、特に強化された「アス・サイリヤ」軍事基地に移転された。2003年6月、米大統領ジョージ・ブッシュは、この基地を訪問し、米中央軍司令官トミー・フランクスと会見し、その後、アメリカ兵と連合軍軍人の前に現れた。

■クーデター未遂

 2001年5月21日、ドーハでの審理において、カタール酋長の従兄弟ハマド・ベン・ジャセム・アル・タニ師が、1996年2月のクーデター実行未遂に対して、死刑を言い渡された。彼は、控訴審が終身刑の処罰を絞首台に換えた「センセーショナルな判決」を下した19人の中にいた。更に26人が 終身刑を言い渡され、28人が無罪となった。彼ら全員は、政界及び軍において高いポストを占めていた。この事件の再審理は、そのような判決を全く予測できなかった弁護士により提出された控訴により行われた。元経済相かつ警察の長は、4年間の国外放浪後、1999年7月 、首長国の保安機関によりカタールに引き渡された。当時、ハマド・アル・タニ師の私有機は、ベイルート空港からの離陸後にカタール特務機関のエージェントにより奪取され、ドーハに着陸した。2000年2月、ハマド師と一緒に、陰謀への関与で有罪を認められた32人が終身刑を言い渡された。彼らは、1995年6月 の自分の息子による無血宮廷革命の結果打倒された元酋長ハリフ・ベン・ハマド・アル・タニ師を支持していた。

 2002年11月、対テロ連合軍のイラク侵入の準備に関する噂が現れるや否や、カタール(当時、侵入を支持したペルシャ湾唯一の国)において、軍事クーデター未遂が起こったという情報が流れた。類似の報道は、アメリカのUPI通信社を含む一連の西側マスコミに現れた。

 これらの報道によれば、カタールの陰謀は摘発され、そこに配備されたアメリカ軍人の助けにより、10月中盤に鎮圧された。この後、イエメン及びパキスタン出身のカタール軍将校、並びにその親イスラム的見解で知られる数人の民間人を含む140人が逮捕されたという。

 同情報によれば、少なくとも2人のベン・ハリフ一族のメンバーは、陰謀者を支持する用意があった。UPI電によれば、カタール当局は、クーデター未遂の背後には隣国のサウジアラビアが立っていることを疑っている。

■スパイ審理

 2003年2月24日、カタールの控訴審は、前年10月に「外国国家のためのスパイ行為」に対してヨルダン人ジャーナリストに言い渡された死刑判決を支持した。30歳のカタールのテレビ会社職員フィラス・マジャリは、国内のアメリカ軍の配置に関する秘密情報の収集及びヨルダン特務機関への引渡、並びにカタールの国家安全保障に係わる情報の収集で、有罪を認められた。

 カタールの法律は、スパイ行為で起訴された者に対して、死刑又は完全無罪の2つの事件の展開のシナリオしか規定していない。マジャリには、 その権力で司法決定を取り消せる酋長ハマド・アル-タニ師の恩赦を当てにすることが残された。

■カタールとチェチェン

 ロシア特務機関は、チェチェン人テロリストの支援で、この国家に本拠地を置く慈善基金を再三非難した。 「セヴォードニャ」紙のインタビューにおいて、元ソ連KGB第1総局長レオニード・シェバルシン中将は、以下のことを確認した。

「外国特務機関の関与の程度は、様々であり得る。第1に、彼らは、現地からの情報収集を実施しているはずである。それ故、トルコ人とアメリカ人は、トルコおよびペルシャ湾領土からチェチェンに対する放送を監督している。第2に、物的援助。例えば、今積極的に戦闘員を援助している慈善協会「カタール」は、私がまだアフガニスタンにいたとき、ムジャヒディンに援助を提供していた。しかしながら、特務機関は、テロリストに金を渡すのではなく、武器で支払うことを好んでいる。」

 2001年、FSBダゲスタン局は、共和国検察庁と密接に協力してダゲスタンのチェキストにより行われた指向性業務の結果、ダゲスタン共和国における「MIOS」、「カタール」、「 ベネヴォレンスInt.Fnd.」及び「アル-ハイリヤ」 の活動がロシア連邦の利益に応えないものと認められ、それに従い、司法秩序において、ダゲスタン領内におけるその事後の機能化が停止されたと表明した。

 2003年、FSBは、イチケリアの首都に代表部を有したクウェート社会改革協会が、バクーに何百万もの額を送金し、後で密使によりグローズヌイ に持ち込まれたルートとなっていたという情報を流布した。一方、国際慈善協会「カタール」は、同名の国からダゲスタンのノヴォラク及びツマンディン地区 のチェチェン人戦闘員に数百万ドルを送金した。

 元チェチェン副大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフは、居住地として特にカタールを選んだ。カタールにおいて、ヤンダルビエフは、かなり快適な条件下で3年間暮らした。当局は、彼と彼の家族に外交地区に家を提供した。以前、ヤンダルビエフは、アラブ首長国連邦に住んでいたが、後に彼の居住権は取り消された。それにも拘らず、 ロシアにおいて、ジョハル・ドゥダーエフの側近には、ダゲスタンでの武装反乱の準備、匪賊部隊の創設の共犯及び法保護機関職員の生命に対する侵害の被疑事実が提示された。

 2001年末、ヤンダルビエフは、ダゲスタンへの侵入の他の組織者と一緒に、インターポールのラインで手配された。ヤンダルビエフがドゥブロフカでの人質略取に関与したという情報も存在する。2003年、ロシアの動議により、分離主義者のリーダーは、国連の専門家により国際テロリストのリストに編入された。ヤンダルビエフは、2003年2月13日に自家用車で爆殺された。爆発は、51歳のヤンダルビエフ と一緒に彼の13歳の息子ダウドと2人の警護官がいたジープの内部で起こった。ダウドが車を運転し、ゼリムハンは隣に座っていた。ヤンダルビエフは、ドーハの「ハマト」病院に運ばれ、そこで死亡した。2月26日、カタール当局が2月19日夜に3人のロシア特務機関職員を拘束し、その内2人にヤンダルビエフの暗殺の組織 の被疑事実を提示したことが明らかになった。

■テロ組織の支援

 1999年10月、ヨルダンにおいて、国内に隠れていたハマス組織のリーダーが逮捕され、軍法会議に掛けられた。彼らには、より当局に忠実な「ムスリム同胞団」の隊列への浸透及びその過激化、武器の不法保管、500万ヨルダン・ディナールの額の資本の隠匿、王国領内における地下訓練キャンプ及び何よりもヨルダンの主要政治家の電話会話の盗聴 に従事した地下諜報網の創設等、複数の条項による被疑事実が提示された。ほぼ全ムスリム世界に大きな反響を引き起こしたこの事件は、同年11月に結審した。ヨルダン当局は、 国内のパレスチナ人の反応を懸念して、総合情報庁長官サミフ・アル-バチヒの勧告により、ハマスの指導者を国外追放した。ハシム王国を離れた後、彼らは、カタールで政治的庇護を受けた。

 この際、カタールとイスラエルの特務機関は、かなり密接な関係を維持しており、特に、モサド(主として、「チェヴェリ」局)のラインで、最近、両国間の接触の大部分が実施されている。

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最終更新日:2004/03/18

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