サウジアラビア王国総合情報庁

アル-イスタフバラフ・アル-アマフ

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 メッカ、メディナのイスラムの聖地と世界の石油埋蔵量のほぼ4分の1を支配しつつ、エル-リャドは、ムスリム世界におけるリーダーシップをしつこく要求している。その地政学的野心の行使を可能にしているのは、多くの場合、王国建国時から権力の座にあるアル-サウド家体制の国内安定である。これは、王族の一員、バーブ教聖職者及び強力な保安システムの3つの主要勢力に支えられている。後者は、内務省、総合情報庁及び防諜部、並びに国家親衛隊を含む。これには、軍の編成において特権的立場を占めるフェイサル・ビン-トゥルキ第1特殊任務旅団が加わる。

■対外政策の道具

 サウジアラビア王国総合情報庁は、イスラム世界で最も秘匿された諜報部の1つである。庁は、王国の残りの保安機構より少し遅く、50年代後半に創設された。その要員の編成及び訓練において重要な役割を演じたのは、CIAの教官だった。総合情報庁初代長官の人物については、別の解釈を許さぬ情報はないが、フランス筋は、カマル・アドハム・アル-フェイサルだったと主張している。

 初期段階において、総合情報庁の主任務は、アラブ諸国、特に王制打倒及び左翼敵対派の支援に向けられたイラク及びエジプトの破壊活動の無力化にあった。一時的な注意は、アラブ内の部隊におけるエル-リャドの主敵であるカイロに向けられた。60年代中盤から、総合情報庁は、ナセルの主要敵対派だった「ムスリム同胞団」への援助提供に着手した。事後、この組織及びそれから離脱したより過激な集団との協力は、サウジ諜報部の業務の優先方面となった。1976年に庁を指揮したトゥルキ・アル-フェイサルは、イスラム運動との協力機構を著しく完全化した。彼の発議とイスラム 同胞団の援助により、庁は、国際レベルでのサウジの主要秘密作用手段に変わった。ちなみに、70年代初めに現れた世界石油市場における価格の急激な上昇は、得られた収入の相当部分が諜報の需要に回されたため、これに極めて好都合な条件を創出した。庁は、アジア及びアフリカ諸国における宗教・啓蒙及び軍事・政治性の数十のイスラム組織に出資した。ムスリム 同胞団の全世界指導部との秘密関係、それを通した総合情報庁への依存は、エル-リャドが当該地域の情勢に効果的に作用することを可能にした。

 70年代中盤、サウジアラビア諜報部は、米国及びフランスの特務機関との協力を顕著に強化した。彼らと共同で、総合情報庁は、ムスリム諸国におけるソビエトのプレゼンスの全世界的無力化ドクトリンを立案した。このために、1976年、エル-リャド、テヘラン、カイロ及びラバトの諜報機関が入ったいわゆる「Safari-club」が編成された。この同盟の活動は、サウジアラビアにより出資された。アジア及びアフリカの多くの地域において、これは、ソ連と関係する親ソ解放運動又は体制の代替となるイスラム組織の創設又は支援に向けられた。つまり、エジプトと共同で、サウジアラビアは、南イエメンのイスラム敵対派、モロッコと共に、アンゴラのUNITAグループを支援した。PLOの一連の派閥、シリア、リビア及びアルジェリア指導部に対するソビエトの影響力への平衡力として、サウジアラビア王国総合情報庁は、「Safari-club」の他のメンバーの援助により、その国内の敵であるイスラム教徒への援助提供を開始した。1978年、アフガニスタンでのサウル革命後、トゥルキ・アル-フェイサルは、パキスタン諜報部(ISI)長官ジェイラニ・ハーンと類似協力を確立した。これは、アフガニスタンのイスラム敵対派だけではなく、南アジアにおけるソ連の戦略的パートナーであるインドのイスラム集団の支援にも向けられた。

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活動

 70年代〜80年代の間、サウジアラビア王国総合情報庁は、その戦術を変えた。アル-フェイサルのソ連のムスリム問題顧問、ウズベク人のホジ・ジャムシドの参加もなくもなく、サウジ諜報部は、ソビエト連邦に対する直接作戦に移行した。この方面における第一歩となったのは、1978年のカイロに本社を置く国際自由出版・情報組織の創設だった。数年後、「Safari-club」(その時までに、イラン諜報部が離れた。)の参加の下、アフガニスタンでの戦争への義勇兵の動員を担当した組織「マクタブ・アル-ヒドマト」が創設された。その主要パトロンとなったのは、アル-フェイサルと1981年1月にCIAを指揮したウィリアム・ケイシーだった。彼らは、世界の石油市場の価格操作に基づいたモスクワに対する全世界的破壊工作の作者であった。つまり、ソビエト経済の破壊が計画されていた。ソ連の国内情勢の不安定化のために、総合情報庁とCIAは、中央アジアとカフカーズのイスラム地下活動の支援に関する計画を立案した。その実現のために、「無害な」飛行言語学研究所からヘクマティヤルの「ヘズブ-イ・イスラミ」までの非常に様々な機構を活動させた。ちなみに、当時、サウジアラビア王国総合情報庁は、ソビエトの首都にすら独自のエージェントを有していた。彼らは、モスクワの大学で勉強し、ムスリム 同胞団の現地支部に属していたアラブ人学生だった。

 90年代前半、サウジアラビア王国総合情報庁は、ISIと並んで、「タリバン」運動創設者の1つとなり、2002年初めに至るまで、これとかなり密接な関係を維持した(駐イスラマバード・サウジアラビア大使アリ・アッシリを通しても含めて)。サウジアラビア王国総合情報庁は、ムスリム 同胞団と関連した各種機構を通して、及びISIの支援の下、旧ソビエトの中央アジア諸国、グルジア、アゼルバイジャン及びロシアのムスリム地域 において、かなり活発な活動を展開した。あるロシア筋によれば、当該場合、特に、駐モスクワ・サウジアラビア王国大使館イスラム課長スレイマン・アル-モゴシと領事アブダッラ・アル-ハミドを通して、サウジ外交官も利用された。

 2001年、総合情報庁は、ロシアにおけるその活動規模を顕著に削減した。同年8月、米国でのテロ行為のちょうど11日前、トゥルキ・アル-フェイサルは、そのポストを離れ、2002年7月、新しい職務である駐ロンドン・サウジアラビア大使について発表された。彼の代わりに、サウジアラビア王国総合情報庁は、ナイフ・イブン・アブド・アル-アジズが指揮し、昨年4月、その作戦部隊担当次官にマフムド・ビン-ムハッマド・バフシュ中将を任命した。

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最終更新日:2004/04/11

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