世界イスラム・カリフ制国創設闘争におけるサウジ特務機関

ルースキー・ジュルナール、2001年9月24日

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■20世紀は米国の世紀、21世紀はサウジアラビアの世紀?

 過ぎ去った20世紀は、米国の世紀となった。特にこの百年間で、アメリカは、文明世界の辺境から世界覇権への道を歩んだ。十年毎に、米国は、ますます強くなり、ますます攻撃的に他国の内政に干渉した。「民主主義支援基金」を通してソ連辺境の民族運動と中央の民主運動を出資したCIAの積極的参加の下で起こったソ連崩壊は、世界を一極化にし、米国の影響力は、独占的になった。しかし、そのような成功の達成は、ある程度、アメリカの対外政策を袋小路に導いた。大きな影響を達成することは不可能(単に、もはや行くべきところがない。)で、つまり、それへの希求がない。

 新世紀は、言うまでもなく、世界におけるムスリムの割合が成長し続けているため、世界におけるムスリム諸国の影響力の増大の時代となりつつある。1900年、彼らは、地上の13%を、2000年には、20%を構成した。世界におけるイスラムの高揚が、最近、バーブ教諸国(サウジアラビア、アラブ首長国連邦、クウェート、カタール、バーレーン)の影響力の増大により起こっていることは、全く当然のプロセスである。バーブ教諸国は、米国と共にソ連との冷戦に勝利したが、米国と異なり、それへの希求が存在する。世界におけるその影響力の増大の潜在性は、決して尽きていない。同時に、他の多くのイスラム諸国は、ソ連と一緒に冷戦に敗北したため、世界におけるその影響力の強化については、語るまでもない。 バーブ教諸国の強化は、経済情勢も力になっている。過去2年間、世界市場において、バーブ教諸国の主要輸出品である石油の価格は、かつてない高い水準にある。

■サウジアラビア−バーブ教全体主義国家

 最近、ロシアにおいて、多くの政治学者は、イスラム諸国において、民主主義の発展が弱体で、憲法は不完全で、選挙は民主的に行われず、 敵対的なマスコミは民族及び宗教少数派と同様に迫害される等について語っている。中央アジアからトルコに至るまで、様々な例が出されている。しかし、サウジアラビアでは、「民主主義」の概念自体がシャリアートに抵触するものとして禁じられ、憲法は全くなく、いかなる選挙も国の全歴史に渡って一度も行われず、敵対的なマスコミの出現は厳格に禁止され、宗教少数派は権利を奪われ(シーア派は、スンニーの掟により暮らさざるを得ない。)、2,000万人の内、国王1人だけが投票権を有する。サウジアラビアにおいて、国王は、自動的に首相のポストを、その後継者である息子は第一副首相を占め、閣僚全員は、王族の中から国王により任命される ことに言及する者は少ない。1993年、サウジアラビアに、議会には似ても似つかない新しい機関、諮問会議が現れた。その90人の議員全員は、国王により任命される。政党不在の外、労働組合を含む社会組織の機能化も禁止された。その上、そのような社会の状態だけがイスラムの規定のバーブ教的概念に応えるため、類似の状況は、全バーブ教国家に存在する(特に、多数派の農村のシーア派が都市の少数派のバーブ教徒に隷属するバーレーンの状況が典型的である。)。1962年8月、国王の弟タラルが、ベイルートにおいて、サウジアラビアが憲法を有さず、個人的自由を保証せず、人間の尊厳を尊重しない国家であると表明したとき、彼は直ちに国籍を剥奪された。

■「大イスラム・カリフ制」

 サウジアラビア王国 の戦力省は、国防省、内務省及び国外作戦に従事する総合情報庁に代表される。トゥルキ・アル‐フェイサル王子と、ファハド国王の息子、アブダッラ・ベン・アブデル・アジズ・アル・サウドが指揮する当特務機関は、ロシア方面において、関係する「独立した」国際原理主義組織、並びにユーラシア地域の最も親しい同盟国、パキスタンの省庁間情報部ISIを利用した。サウジアラビア王国総合情報庁は、世界全ての諜報部と同様に、サウジ大使館のカバーの下、国外で行動している。しかし、サウジアラビア王国総合情報庁は、更に大きく各種人道基金の手で、国外での計画を実現している。サウジアラビア王国総合情報庁とサウジの基金の関係は、王家の許可なく、1つの基金も設立され得ないことを考慮すれば、ますます明らかになりつつある。これは、例えば、イスラム会議機構、「国際イスラム救援機構」、「全世界イスラム同盟」、イスラム世界同盟、イスラム都市機構、「ハヤト・ウリ-イガサ」、「イブラヒム・ビン・アブドゥラジズ・アル・イブラヒム」、「SAAR Foundation」、「タイバ」である。

 サウジアラビア王国総合情報庁の支援の下で創設された全ての基金及び組織の目的は、国際「大イスラム・カリフ制」の創設である。このカリフ制国の地図は、既にサウジアラビアで発行されている。そこでは、世界の全てのムスリム国家が、大西洋から太平洋までの1つの緑色の領土に統合され、その上、カリフ国には、北カフカーズも、タタールスタンも、バシキールも、当然、カザフスタンと中央アジアも含まれている。ロシアにおいて、ゲイダル・ジェマリのような活動家が、「大イスラム・カリフ国」思想への自分の献身を隠しすらしていないことは興味深い。

■世界各国におけるサウジ特務機関

 サウジ特務機関は、多くの国で活発に行動している。彼らは、事実上、1991年にイラク占領の支持者全員の除去に従事したクウェートのサラフィスト機構の創設者である(ちなみに、サウジアラビアは、1991年、イラクとの戦争のために、特にバーブ教徒をクウェートの権力に復帰させるために、自国領土をアメリカ人に提供した。)。これらのサラフィストは、チェチェン及びダゲスタンで活発に行動している。「布教・ジハード・サラフィスト・グループ」は、2001年1月のアンナブ(アルジェリア)での4人のロシア市民の殺害で非難された。事実上、サラフィストは、バーブ教徒の別名でしかない。サウジアラビア王国総合情報庁の支援の下、アジア・ムスリム委員会も創設され、 クウェートの宗教次官A.ファッラーが率い、この半国家組織は、モスクワに公式代表部を有する。

 サウジアラビアの財政支援の下、1997年7月、ダッカ市(バングラデシュ)において、「国際イスラム代表機構」が創設された。IIROの支部は、パキスタン、ソマリア、セネガル及びロシア(モスクワとタタールスタン)に存在する。創設の発議者かつロシア連邦におけるIIROの設立者の1人は、バングラデシュ市民のマジュムデル・ムド・シャムスル・アミンである。IIROの創設目的は、ロシア(先ず第1に、タタールスタン)及びCIS中央アジア諸国を含む国際舞台でのイスラム思想の拡散である。10年を念頭に置いた組織の活動計画は、他の国際イスラム機構との協力下における「複数のロシア連邦主体が入るはずであるタタールスタンを中心としたロシア領内のイスラム国家」の創設に狙いを定めている。1998年2月、IIROは、「黒いムスリム」の指導者ルイス・ファラッハンのダッカ訪問を組織し、マジュムデルの賓客としてそこに滞在した(1998年末、ファラッハンは、ナディル・ハチラエフの招請によりモスクワを訪問し、モスクワの高僧ラヴィル・ガイヌトディンは、聖なるラマダン月 の説教のため、平和通りの大モスクを「黒いムスリム」の指導者に提供した。)。「黒いムスリム」組織は、米国において、主として黒人囚人中で扇動を行っている(毎年、刑務所には3万5千人のイスラムが収容され、「黒いムスリム」がアメリカのムスリムの42% を構成している下で、囚人は、米国のムスリムの30%を構成している。)。

 サウジアラビア総合情報庁に近いサウジの基金は、パキスタンの組織「ジャマート-イ-イスラミ」(ラホール市で2つの出版社を有し、ロシア語の雑誌及び各種宗教文献を発行し、ロシアとCISに流布している。)も、「ジャミアト-ウリ-ウレマ-イ-イスラミ」 (全世界に広いモスク・ネットワークと約3,500校のメドレセを有し、その1つで、タリバンの指導者、モハメッド・オマル師が勉強した。)も出資している。サウジ特務機関の支援の下、パキスタンにおいて、パンジャブで150校以上のメドレセを監督するバーブ教公然武装政党「アル‐イ‐ハジトフ」も、シーア派すらも「非ムスリム少数派」として迫害に賛成する武装協会「アンジュマン・シパフ‐イ‐サハバ」も、カシミールのパキスタンへの併合のために武装方法で戦っている集団「ハラカート‐ウリ‐アンサル」も創設された。「ハルカート-ウリ-アンサル」の戦闘員は、ビルマ(アラカンス)、ボスニア(1992年に初めて現れた。)、タジキスタン(1992〜1994年)領内での武装行動に参加した。サウジ特務機関により、パキスタンに国際イスラム大学も創設され、その枠内において、戦闘員の訓練センターが活動している。毎年、訓練班では、平均40人のチェチェン及びダゲスタンからの学生が教育される。

 サウジ特務機関により、1991年、イエメンにおいて、大過激政党「イスラフ」(「改革のためのイエメン統一」)も、サウジアラビアとの国境領域を支配するアブドゥッラ・ベン・フセイン・アル‐アフマル師が指導者である「ヒズブ-アタジャリ-ダリ-アッラー」党も創設された。

 サウジアラビアの3人の王子の参加の下、エジプトにおいて、1978年、新聞、雑誌、並びにテレビ及び映画フィルムを発行する国際出版・情報の自由機構が創設された。この全ては、宣教師を通して、ロシア連邦及びCIS諸国に送り届けられている。サウジアラビア王国総合情報庁の支援の下、レバノンでは、アルジェリアのイスラム救援戦線と密接な関係を維持するバーブ教の「イスラム救援運動」が活動している。

 サウジ特務機関は、モロッコにも浸透し、「アル-アドル・ウアル-イスハン」と「アシュ-シャビバ・アル-イスラミヤ」組織を創設した。

 英国、米国、アゼルバイジャン、アルバニア、バングラデシュ、ベルギー、ブルガリア、ボスニア、ドイツ、イタリア、カザフスタン、オランダ、パキスタン、ロシア、スーダン、ウズベキスタン、ウクライナ、フィンランド、フランス、クロアチア、スウェーデン、スイスでは、サウジアラビア総合情報庁と英国及びクウェートの特務機関が出資する組織「イスラミック・リリーフ」(Islamic Relief)が活動している。組織の長は、ガニ・アル‐バニであり、彼の父は、エジプト大統領アブデル・ナセルの暗殺未遂に参加し、後に処刑された。アル‐バニは、1997年9月、チェチェンに非合法に入国し、マスハドフと会見した。1999年1月16日、組織の支部が、カバルジノ・バルカリアで公式に登録された。2001年初め、「Islamic Relief」は、ナズラニに公館を開設し、サウジアラビアから来たマゴメド‐アリが率いた。

■ロシアにおけるサウジ特務機関

 国外ムスリムの「慈善」活動は、90年代前半、ロシア連邦の大部分をカバーした。当プロセスの重要な段階となったのは、一連のアラブ諸国、先ず第1に、サウジアラビア王国の外交代表部のモスクワでの開設である。国家としてのサウジアラビアは、1932年から1938年まで存在した。ソ連は、それと外交関係を有していた。しかし、後に関係は断絶し、1990年になって初めて回復した。両国間の外交関係の復活には、「Saudi Bin-Laden Group」代表、有名なテロリストNo.1の弟、タリク・ビン‐ラディン のモスクワ秘密訪問が先立った。1990年9月、モスクワにおいて、王国の外交代表部が開設された。間もなく、そのイスラム問題課は、全世界イスラム同盟とサウジアラビア・イスラム・教育・教導省の協力の下、その活動が王国の地政学的及び地域的利益に応えるロシアのムスリム共同体 の破壊分子の主要財政ルートの1つに変わった。バーブ教のイデオロギーと生まれつつあるバーブ教運動の拡散に、特別の注意が払われた。この際、エル・リャドは、しばしば、ムスリム世界における同盟国、何よりもアラブ首長国連邦、クウェート及びパキスタンの外交、宗教及び商業ルートを利用した。

 サウジの基金は、バーブ教の思想の拡散、可能な限り多くの信者の自国側への誘致、並びに現地の現役宗教権威者の名誉毀損及び自国の傀儡のそのポストへの昇進のために、ロシアのムスリム地域領域における上記組織の支部創設を積極的に促進している。

 1990年代初め、サウジ特務機関が監督する基金は、ソ連及びロシアの事実上全てのムスリム活動家と接触を確立している。この際、 彼らは、ロシアの主要な高僧タルガト・タジュディンとも、分離派のナフィグラ・アシロフ、ムカダス・ビバルソフ、ガブドゥラ・ガリウラ及びヌルムハマド・ニグマトゥリンとも、共通の言葉を見つけようとしている。サウジアラビア王国総合情報庁は、宗教団体「バイト‐アッラー」及び「スラ」を創設し、その活動を調整した。イスラム文化センター長アブゥル‐ワヘド・ニヤゾフとイスラム委員会議長ゲイダル・ジェマリが、サウジ人と親しく接触している。1992年、タルガト・タジュディンは、サウジ人との関係を断絶している。断絶の原因となったのは、サウジ人がイスラムのバーブ教方面のプロパガンダに対してだけ しか、数百万の寄付金を割り当てる用意がなかったことである。タジュディンの敵は、彼が彼らの金を目的外に支出したこと、並びにタジュディンが非標準的な「異端」の表明を行う傾向で、サウジ人と彼の断絶を説明している。タジュディンは、例えば、タタール人の祖先が預言者イブラヒム(アフラーム)以前のアッラーをテングリと呼んだと表明して、古代トルコのイスラム前多神教、「テングリ教」(テングリの世界精神の信仰)を一神教の最初の形態と説明した。しかしながら、最近、 ガイヌトディンも、ニヤゾフも、資金の目的外支出及び「異端派」(例えば、ファラッハンと)との友好で非難されたが、サウジ人は、彼らのプロジェクトの出資を中断していない。

 この時以来、サウジ人は、分離派の支援に賭けており、一般に、協力する用意がある側を支持しつつ、全ての紛争に介入しようとしている。1990年代初め、モスクワの高僧ラヴィリ・ガイヌトディンは、駐モスクワ・サウジアラビア大使館と独自の関係を樹立し、特に大使館で働いている同国諜報部職員ファジ・ムハメッドと密接な関係を確立している。

 サウジの基金は、宗教及び文化イスラム・センター、宗教教育施設の建設の特別出資を実施し、サウジアラビアの神学教育施設での現地青年の教育を支払っており、そこで、しかるべき工作と研究が実施されている。ロシアのムスリム地域領域 において一連の宗教教育施設、例えば、カザンの「ムハッマディヤ」が創設された。モスクワ高等イスラム大学は、事実上、大使館代表が自分のエージェントと未来の計画について会議するサウジアラビア王国総合情報庁の合法的な本部庁舎に変わった。国際イスラム機構(イスラム会議機構、イスラム発展銀行)へのムスリム自治区の加盟を得る試みが着手され、最恵国待遇での業務関係が樹立されている。

 ロシアには、沿ヴォルガ及びウラル領域におけるサウジアラビア を指向した独立国家アラブスタンの創設を目的とする全世界イスラム救援組織「アル‐カフサル」も現れている。

 ロシア高僧会議指導者ラヴィリ・ガイヌトディンとナフィグラ・アシロフは、バーブ教基金からの金銭の授受の事実を隠していない。彼らのプロジェクトを出資する基金の中で、 彼らは、ロシア基金(イブラヒム・ビン・アブドゥラジズ・アル・イブラヒム)、国際イスラム救援組織、「国際人道アピール」、コーラン・スンナ科学賞委員会、イスラム援助・救援局、「イスラミック・リリーフ」、イスラム世界同盟、 全世界イスラム青年総会、アジア・ムスリム委員会を挙げている。タタールスタンの高僧 (タジュディンの教区)ファリド・サルマンの言葉によれば、タタールスタンにおいて、シャイミエフの支持の下、1998年、共和国ムフティーには、グスマン・イスハコフ がなった。グスマン・イスハコフは、「ロシアにおけるサウジアラビアの有償エージェントであり、彼の息子は、今、サウジアラビア、エル・リャドのアブデル‐バーブ大学(アブデル‐バーブは、バーブ教の開祖)で勉強している。バーブ教徒との接触においては、タタールスタン最高指導部の代表が認められた。国際慈善組織「タイバ」(サウジアラビア)は、タタールスタン国家会議議長ファリド・ムハメトシンに書簡すら送った。「我々の組織は、メドレセ「ヨルドゥイズ」と密接に協力している。・・・我々は、タタールスタン青年のイスラムへの親和のための条件を創出している共和国の指導者に感謝する。将来も、我々の関係が拡大し、より実り多いものとなることを期待する」。このメドレセは、2000年、バーブ教の布教のため、ロシア連邦FSBにより閉鎖された(何よりも、そこでは、モスクワでの爆破 事件の被告の1人、デニス・サイタコフが学んでいた。)。最近、イスハコフと共和国指導部の支援の下、ナーベルジュヌイエ・チェヌイにおいて、同年にその活動を再開した「ヨルドゥイズ」の開校記念の祝典が行われた(今、そこでは、女性も学んでいる。)。

 アシロフも、ガイヌトディンも、受け取った金を忠実に処分している。ガイヌトディンは、例えば、2001年6月12日付のMK紙とのインタビューにおいて、「バーブ教は、 政治家とジャーナリストに謝って解釈されている。これには、全面否定が書かれているが、実際には、・・・バーブ教とは、コーランとスンナに基づいた教義である。そこには、過激主義も、テロリズムへの暗示もない。それが非難されている以上なおさらである」(1996年の駐エル・リャド・アメリカ大使館付近での爆発について言及することを忘れている。) と表明している。アシロフはまた、バーブ教徒をスケープゴートとも考えている。「サウジの農民をバーブ教徒と考えるとすれば、彼は、一般に、祈祷し、精進し、働くこと以外に何もできない。ロシアは、ペルシャ湾諸国と外交関係を有している。それでは、ロシア連邦は、テロ国家と事を有しているというのか?」(1930年代末のドイツ人農民を国家社会主義者と考えるとすれば、彼は、 サウジ人以上のことは行えないが、これはナチスも無害であることを意味するのだろうか。外交関係について言えば、ヒットラーのドイツとも外交関係はあったからだ。)。サウジ特務機関により気前良く出資されているバーブ教徒は、ますます強力かつ多数になりつつあるが(特に、狂信者だけではなく、ガイヌトディンとアシロフ のようなバーブ教に忠実な思想家も考慮すれば)、ロシア当局は、これに気づかないことを好んでいる。しかるべき基金も、大使館も、ムスリム共同体も、いかなる制限もなく、その活動を継続している。 雷が轟かない限り、肩章を付けた百姓は、十字を切らないのだろうか?

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最終更新日:2004/04/25

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