スーダン空軍

 スーダンは、1957年1月1日に独立を得、続く数年間に、航空戦力も編成され始めたが、実際、陸軍の監督下にあった。その上、空軍は、当初、国内騒擾の鎮圧を主目的として有した。

 最初の機体となったのは、エジプトにより譲渡された「ゴムフリア」教育・訓練機×4機であり、その後、12人のスーダン人パイロットが、1955年、ビルベイスの飛行アカデミーで訓練を受けた 。

 しかしながら、戦闘能力のある航空戦力の創設は、英国人と関連した。訓練されたこれら12人のパイロットは、英国に派遣され、「プロボスト」T.53軽攻撃機への再教育が行われた(更に、同機4機が1956年に納入された。)。1957年11月、2機の「プロボスト」が空中衝突した上に、4人の訓練されたパイロットが死亡した(3分の1!)。

 スーダン人は、英軍事施設団の援助の下、首都ハルツームに独自の飛行学校も設立した。エジプトの圧力の下、1957年、チェコスロバキア・ソビエト社会主義共和国とミグ15機の納入に関する協定が締結されたが、英国人が「要求」し、間もなく、更に5機の「プロボスト」 (1958年と1961年)が装備に導入され、チェコの発注は取り消された。

 軍事輸送航空隊の編成も始まった。1959/60年、英国から、「ペムブロウク」C.54×1機とC.55×2機が受領された。その外、1962年、DC-3×2機が調達された。「輸送機」用の全要員は、RAFのアビングトン航空基地で教育を受けた。

 スーダンの兵器市場における英国のプレゼンスは、1962年に確立され、「ジェット・プロボスト」T.51×8機が納入され、軽攻撃機の役割において旧式機と交替した。

 スーダンは、あらゆる交通路の完全な欠如を特徴とし、絶え間ない内戦は、政府軍の機動性の急激な増加を要求した。1965年、フォッカーF.27×4機が購入され、「ダコタ」及び「ペムブロウク」に加わった。この全ては、ドイツから受領したドルニエDo.27A×3機と、1966年に購入されたピラトスPC-6×8機で補強された。

 1967年のアラブ・イスラエル戦争は、元宗主国との関係における転回点となった。スーダンが重要な戦略的パートナーだったソ連が、市場にすぐさまやって来たのも当然のことである。1969年、英軍事使節団が国を離れ、ほぼその直後、代わりに、An-12×6機とAn-24×6機と共にソビエト使節団がやって来た。1970年、国内に、最初のヘリ、Mi-4×6機とMi-8×8機が現れた。ニメリ大統領は、毛沢東の中国にも援助を要請し、F-5(MiG-17Fのコピー)戦闘爆撃機×20機と若干数のFT-5及びFT-2(MiG-15UTI)教育・訓練機の納入に反映された。

 同年、F-5は、定期的な蜂起時、南部の反乱軍基地に対して打撃を与え、その真価を発揮した。スーダン人パイロットが壊滅的に足りず、非常にしばしば、ミグの操縦席には、ロシア人、中国人又はエジプト人パイロット が座っていたことを指摘すべきである。

 次のソビエト・スーダン協定の過程において、MiG-21MF×18機とMiG-21UTI×2機が装備に現れた。その外、分かりきったことだが、ソビエトの援助で、全飛行場網の近代化が行われた。しかしながら、1971年、ニメリ大統領は、社会主義に失望し、ソビエト人顧問は、ソ連海軍地中海戦隊の艦砲の援護の下、緊急に撤収せざるを得なかった。その結果、スーダン機の多くは、70年代、単なるスクラップの山に過ぎなかった。つまり、1978年、アンとミグの半数だけが、理論上、空に上がれた。

 しかしながら、聖域は空白とはならず、「旧友」の英使節団がハルツームに助けに戻り、米国は、C-130「ハーキュリーズ」×6機を売却した。更に多く、1977年、空軍の装備に、「バッファロー」×4機、「プーマ」ヘリ×10機、MBB 105C×20機及び「ミラージュ」5D×12機が発注された。しかしながら、スーダン経済は、そのような重圧に耐えられず、後に、「プーマ」と「ミラージュ」の発注は取り消された。アメリカ人は、F-5E「フリーダム・ファイター」×10機とF-5F×2機の売却に関する協定に署名し、航空兵器市場における自国のプレゼンスを強化しようとし、1980〜81年、中国人は、F-6(MiG-19Sのコピー)×12機を納入した。

 しかしながら、財政問題のため、アメリカ製武器の発注は取り消された。1981年、リビア・チャド戦争が始まり、退却するチャド部隊を追及するために、その領内に侵入したリビア部隊の形でスーダンに影響した。

 1977年の相互防衛協定によりスーダンと結び付いたエジプトは、リビアに警告を行った。類似の行動は、1983年にも起こり、当時、エジプト人は、スーダン国境に「ファントム」飛行隊を移動させた。今度は米国が提案を行い、1983〜84年 に2機のF-5Eと同数のF-5Fが納入された。西側の影響力は、新しい「ストライクマスター」の納入と共に著しく強化された。

 「バッファロー」とC-130を装備した輸送飛行隊は、1984年の6機のC-212「アビオカル」の納入により著しく強化された。これらのスペイン機は、輸送目的自体の外、紅海沿岸の哨戒のために使用された。

 その時までMi-8の残機を装備していたヘリ部隊は、1986年、近代化とルーマニアでライセンス生産された「プーマ」×12機及びAB-212×11機の納入を必要とした。

 1988年、リビアから、MiG-23BN飛行隊が納入されたが、人員不足のため、その使用は限定的だった。同時に、空軍は、F-7(中国版MiG-21)が充足され、8〜9機の旧式MiG-21を補強した。空軍の損耗は、南部での内戦と関連している。反乱軍は、携帯式対空ミサイルを含む大量の各種防空手段を保有し、損害に影響しないわけにはいかなかった。西側の情報によれば、最近、空軍の損害は、少なくともF-5E×3機、「バッファロー」×1機、C-130×1機、F-6×1機、Mi-8×1機、An-24×1機、MiG-23×3機及びフォッカーF-27×1機が撃墜されたものと評価されている。当初、反乱軍は、リビアから支援を受けたが、1989年から、その主要「スポンサー」には、イランがなった。若干の未確認報道によれば、戦列に残っていたMiG-23がイラク空軍に譲渡され、イランとの戦争で広く使用された。スーダン空軍の現状は悲惨である。航空機の大損害は、政府には壊滅的に資金が不足し、西側の全ての借款が人道的需要に回されているため回復されていない。

スーダン空軍のプロボストT-33訓練機

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最終更新日:2052/09/07

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