シリア空軍史

 シリアは、第一次世界大戦後、フランスの保護領となり、1946年4月になって初めて独立を得た。国がフランスその他の連合軍により占領されていたため、新たに創設された同国の空軍は、多数の良好な飛行場をその管轄下に得た。しかしながら、シリア空軍は、1948年5月にイスラエルとの戦争が勃発したとき、萌芽段階にしかなかった。当時、次のような飛行機が装備されていた。イタリアからはフィアットC.59-2A及び2B戦闘機が、フランスからはYu-52×7機とC-47×6機が得られた。しかしながら、実際に戦闘行動で使用されたのは、英国から得られたAT-6「テキサン」×10機だけだった。戦闘デビューは、失敗だった。イスラエル戦闘機が「攻撃機」1機を撃墜した後、活動は、消滅した。

 真の軍用機は、英国からF.8、T.7及びNF.13型「ミーティア」ジェット機の納入が始まった1954年になって初めて得られた。1955年、シリアのソ連との接近が始まり、空軍の状態にも根本的に影響した。特にこの時から、MiG-15bis(当初、25機が受領された。)、MiG-15UTI(6機)が装備に導入され始めた。シリア人パイロットが第2次アラブ・イスラエル戦争(1956年のシナイ紛争として知られる。)に直面したエジプトで、これらの機体の訓練を受けたのは興味深い。破壊されたアラブ機の中には、シリア空軍のミグ4機もあった。

 戦後、ソビエト機の納入は増加する一方だった。つまり、MiG-17 60機が納入され、追加5個飛行隊の編成を可能にした。最初のパイロット達が、ソ連、ポーランド及び直接シリア(ソビエト人教官が着任した。)で教育を開始した。1958年初め、近東において、新しい国家、アラブ連合共和国が建国され、シリアも加わった。しかしながら、1963年9月26日の軍事クーデター後、シリアは、この国家から脱退した。この時までに、シリア空軍は、MiG-17F(迎撃機)2個飛行隊、MiG-15bis(攻撃機)1個飛行隊から成った。輸送航空隊は、8機のIl-14と数機のС-47で代表された。訓練機は、主として、Yak-11、Yak- 18、MiG-15UTI、「チンプヌク」等の東側製の機体で代表された。Mi-1/Mi-4ヘリ15機も存在した。しかしながら、ワルシャワ条約機構加盟国からの教官、主としてポーランド人、チェコ人及びロシア人が勤務し、それで飛行した。

 1967年の戦争までに、シリア空軍は、MiG-21×3個飛行隊から成る1個連隊、Il-28×1個飛行隊、MiG-17F×2個飛行隊及びMiG-17PF迎撃機×1個飛行隊から成った。その外、数機のMiG-15bisが戦闘編成にあった。教育機は、少数のL-29「デルフィン」ジェット機により充足された。軍事輸送航空隊には、Il-14×1個飛行隊と数機のС-47が存在した。

 イスラエル空軍との衝突は、1966年に始まり、7月2日、イスラエルの「ミラージュ」が、ゴラン高原上空においてMiG-21Fを撃墜した。1967年4月、「シュペール・ミステール」は、少なくとも6機のMiG-21を撃墜した。1967年の6日戦争の初日、1967年6月5日、シリアのダマスカス、ドゥメイル、マルジュ・リャド、サイカル及びT4飛行場が、イスラエルの戦闘爆撃機により攻撃された。これらの攻撃は、地上で多数の機体を破壊して、シリア空軍を事実上完全に壊滅させた。それにも拘らず、シリアのMiG-21とMiG-17は、2機を失いつつ、ハイフの製油工場とメネヘイム飛行場に対する数回の効果的な空襲を行うことができた。しかしながら、戦略的に重要なゴラン高原を巡る戦いで、シリア空軍は、MiG-21F×30機、MiG-15/17×20機、Il-28×2機及び及びMi-4×3機を撃墜された。ソビエト機の納入は、1968年中盤までに、空軍を完全に再生することを可能にし た外、近代化が始まった。MiG-21PFがMiG-17PFと交替し、MiG-15bisを装備した1個飛行隊は、徐々にSu-7BMに再装備された。1971年、MiG-19迎撃機とMi-8ヘリが装備に導入され始めた。飛行・技術要員の訓練の質も、急激に成長した。1972年、高射ミサイル複合体S-75とS-125が大量に導入され始め、全ての戦略拠点のカバーに配置された。代わりに、シリア人は、ラタキアとタウラスの港湾施設をソ連海軍の使用に供した。

 1973年の戦争までに、シリア人は、MiG-21MFほぼ100機、Su-7BMK×40機、MiG-17F/PF×120機を保有していた。空軍のネットワークは、再びイスラエル空軍の攻撃対象となり、再び地上でほぼ150機の飛行機及びヘリが破壊された。しかしながら、シリア人は抵抗し、1967年の戦争中に失われた若干の領土を 取り戻すことすらできた。休戦後、ソ連から、再び航空兵器の納入が始まった。

 1974年中盤までに、ソ連空軍機とその他のルートにより、MiG-21MF約100機、Su-7BMK×20機、MiG-23×40機、並びに新世代のミグ、MiG-21SMT×7機とSu戦闘爆撃機20機が再配備された。同期間、実戦経験を有していた北朝鮮及びベトナムからの専門家が入国し始めた。同時に、新しい輸送機Il-18及びAn-12、Ka-25ヘリが装備に現れた。ソビエトの積極的な援助の下、アブ-ア-ドゥボル、スエダ及びサラト飛行場の近代化が始まった。70年代中盤から、シリアは、「共通の事業を売り渡して」、イスラエルとの平和条約に署名したエジプトに不満だったサウジアラビアの金により積極的に助けられ始めた。このことは、空軍でも認められた。

 西側製の飛行機及びヘリも、装備に導入された。「シュペール・フレロン」、「ガゼル」ヘリ×40機(フランスから)、米国からは、C-130H ×2機とL-100-30「ハーキュリ−ズ」×2機が得られた。ヘリ装備は、80年代にイタリアから得られたСН-47「チヌーク」、アウグスタ・ベル212×24機及び「シーキング」数機で充足された。1979年、根本的に新しい機体、最新鋭のMiG-25が装備に導入された。その外、MiG-21bis戦闘機が装備に導入され続け(このようにして、MiG-21の数は、250機にまで達した。)、新しいMi-8×40機がソ連から得られた。

 しかしながら、今、シリア人は、シリアがイラン・イラク戦争においてイランを支援し、サダム・フセインが紛争を挑発し始めた後、イスラエルとの戦争にだけ備えているわけではなくなった。

 近東情勢の新たな先鋭化は、1982年に起こった。シリア軍は、1976年5月にレバノンを占領し、その際、衝突には、MiG-21とSu-7が広く使用された。1978年から81年までのベッカー峡谷上空での衝突において、20機のシリア機が失われた。イスラエル戦闘機との衝突には、Mig-21と23が広く使用された。イスラエル人は、アメリカ製のF-16及びF-15を使用した。イスラエル北部でのイスラム組織のテロ活動がその頂点に達したとき、イスラエル軍司令部は、1982年6月4日、コードネーム「ガリラヤ平和」作戦を開始した。両国空軍の衝突が不可避となった。イスラエルの情報によれば、自国機13機の損失の下、彼らにより、MiG-21/23×54機、MiG-25×2機、ヘリ×3機及びその他25機の計84機が撃墜された。当然のことながら、シリアの情報は異なっている。国連の仲介の下、7月2日に休戦が結ばれた後、レバノンには、平和維持軍が入った。

 今回、イスラエルは、戦争に勝利したが、実際、今回の勝利は、空軍の最良の機材装備により達成された。イスラエル人は、最新型のF-15及びF-16戦闘機、新しい対レーダー・ミサイル、E-2CホークアイAWACS機、並びにシリアの全ての電波電子設備を効果的に制圧した電子戦機を使用した。

 今度のソビエトの納入は、1983年までに空軍の損失を埋め合わせることができた。ハフェズ・アサドは、470機の軍用機を当てにでき、その中には、MiG-25/25R×12機、MiG-23×90機、MiG-21PF/MF/SMT×200機、Su-7MK×60機、Su-22×60機及びMiG-17F×50機 が存在した。これは、多数の輸送機、教育機及び支援機を考慮していない。しかしながら、全機が精神的に老朽化したことが理解されたため、MiG-29とMiG-31の納入の可能性に関して、ソ連と交渉が始まった。ベッカーの教訓が活かされ、1986年、空軍の編成に、電子戦用に特別に最設備されたAn-26が現れ、1987年7月、最新の前線戦闘機MiG-29が導入され始めた。1989年末、最新のSu-24MKの納入も始まった。

 イラクのクウェート侵攻は、アラブ世界を分裂させた。この条件下において、シリアは、多国籍軍に合流し、イラクと対峙した。シリア軍は、非常に積極的に戦闘に参加した。空軍は、両国がソビエト製の飛行機とヘリを装備していたため、混乱の可能性から使用されなかった。

 現在、空軍は、ロシア製の飛行機とヘリで充足され続けている。
 

 

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最終更新日:2004/03/15

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