ジンバブエの情報機関
 

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国内保安・情報警察(Police Internal Security and Intelligence − PISI)

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ジンバブエ共和国警察(Zimbabwe Republic Police − ZRP)

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中央情報機構(Central Intelligence Organisation − CIO):長官M.ガンボ

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ジンバブエ国軍情報部隊(Zimbabwe National Army(ZNA)Intelligence Unit

 CIOは、同国の主要特務機関であり、国家保安相に直属する。この機構は、ジンバブエがまだローデシアだった60年代、ローデシア軍情報団の文民ライバルとして、ケン・フラワー(Ken Flower)により設立された。今日、CIOは、警察との密接な接触の下で活動し、国家保安機能を遂行する。

 現地紙Zimbabwe Newsの情報によれば、CIOの創設者ケン・フローエルは、英MI-6(「Dグループ」)のエージェントだった。その外、彼は、最も多くの諜報部のために働いたエージェントとして、ギネスブックに入ることができる。MI-6の外、彼がKGB及びシュタージと協力し、CIA及びアフリカの複数の特務機関と関係を維持したという情報が存在する。

■一般情報

 12〜17世紀、ジンバブエ及びモザンビーク領域には、モノモタパ国が存在した。19世紀中盤までに、国の大部分は、マタベレ人の最高ボスのモセレカトスの権力下に統合された。1880年代末、S.ローデスを長とする英植民地支配者 により奪取され、南ローデシアの名を受けた。1923年から英国の自治植民地、1953〜63年、ローデシアとニヤサレンド連邦の構成下にあった。ジンバブエは、1980年4月17日になって初めて独立を得、初代大統領には、ロベルト・ムガベがなった。

 英国人の下で現地特務機関がいかに働いていたについては、ほぼ何も知られていない。1979〜1980年、黒人への権力委譲直前、現地特務機関は、その全文書を廃棄した。1つの作戦についてのみ知られている。1977年、英国とローデシアの参加の下、モザンビークのテロリストの基地が撃滅された。作戦には、当時、185人が参加した。

 ムガベは、今日も、変わることのないジンバブエのリーダーであり、今、78歳である。2002年3月13日、彼は、再選された。この際、欧州連合の監視団長カレ・ヴォランは、選挙が一般に認められた基準に全く一致していないと強調した。ラジオ・フリーダムの情報によれば、人権保護組織「国際アムネスティ」は、選挙時、約2千人の野党活動家と独立の監視者が拘束されたと伝えた。以前、欧州監視団最大のノルウェー使節団は、選挙の各段階に違反が伴ったと表明した。主要野党「民主改革運動」は、その監視者がハラレ及びブラヴァイオの投票集計センターに入れなかったと伝えた。英外務相ジャク・ストローの意見によれば、ロベルト・ムガベが結果を自分に有利に改竄したというあらゆる指摘が存在する。

モザンビーク大統領とムガベの会見時、首都の通りを警戒する大統領警護隊兵士 2000年、R.ムガベ政府は、いわゆる「黒い再分割」を裁可した。言い換えれば、50万以上の小作人と70年代の戦争の退役軍人の整備のために、面積500万haの3,041ヶ所の白人農場の接収である。政府は、事実上、1千ヶ所以上の農場の収奪を承認したが、警察は、入植者の所有地からの退去に関するザンビア最高裁判所の決定を遂行することを拒否した。議会は、その間、白人農場からの土地の無償収用を許可する法案を可決した。補償は、一般に可能だが、議員の考えによれば、旧宗主国である英国はこれを配慮されていない。ムガベ大統領は、一般に一か八かの賭けに出た。「我々の意識では、白人農場は、今日、ジンバブエ国の敵である。そして我々は、憤怒に満ちている」と彼は強調した。ハラレから200kmに位置する元南ローデシア首相ヤン・スミスの農場すら、収奪の運命を避けられなかった。80歳のスミスは、首都の親戚の元に引越しせざるを得なかった。

■ロシアの足跡

 1970年代、ソ連特務機関は、ローデシア(ジンバブエ)の英植民地支配者に対して戦っていた反乱軍に限定的援助を提供した。

 1997年3月28日、モスクワ市裁判所は、同国のためのスパイ行為に対して、元在ジンバブエ「アエロフロート」代表補佐ウラジーミル・グルジヤーネツに財産没収を伴う自由剥奪8年を言い渡した。これは、グルジヤーネツ氏の事件に関して下された2つ目の判決であった。2年前、彼は、モスクワ軍管区裁判所により有罪を言い渡されていた。当時、裁判所は、彼が1992年にジンバブエ諜報機関職員との犯罪関係を主導的に確立し、1993年末まで、特に、駐ジンバブエ・ロシア連邦公式在外代表部のカバーの下で活動していたロシア特務機関職員に関する機密かつ国家秘密を構成する情報を引き渡していたことで、彼の有罪を認めた。しかしながら、1996年4月、ロシア連邦最高裁判所軍事部会により判決は取り消された。軍事検察総庁は、事件をモスクワ軍管区裁判所に再送致し、一方、裁判所は、モスクワ市裁判所特別部に送致した。

■キューバの役割

2003年9月1日のハバナでの会見時のムガベとカストロ キューバ内務次官マヌエル・ピネイロ・ロサダの革命軍相ラウル・カストロへの報告書では、「初めて、アフリカの独立国が、南アフリカ共和国、ローデシア、ザイール及びポルトガルの植民地 等、アフリカにおける帝国主義の軍事拠点との共通の国境を得た」。キューバ人は、特にこれを意識的に希求し、アフリカで反帝闘争を行う決意に満ちていた。

 

 

 

 

 

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活動

 2000年8月、独立の「デイリー・ニュース」紙の編集長ジェフリー・ニヤロトのもとに、ジンバブエの特務機関により暗殺者として雇われた35歳のベルナルド・マサラが姿を現した。マサラは、良心の呵責に苦しみ、投降することに決め、自分の潜在的犠牲者に全てを白状した。

 編集者自身の言葉によれば、ジンバブエ中央情報機構(CIO)が徴募したというベルナールは、任務遂行を忌避することを堅く決めた。自分の言葉の正しさを証明するために、彼は、「デイリー・ニュース」のジャーナリストの立会いの下、CIOの自分の「ボス」に電話を掛け、J.ニヤロトの除去に関する作戦の詳細を審議した。立会人は、聞いたことに驚かされた。

 「暗殺者」の主張によれば、特務機関は、「デイリー・ニュース」が「余りに活発な政府反対派」に変わったため、編集長を殺害することを考えていた。彼は、作戦の準備、未来の犠牲者への接近路の捜索について話した。ある日、「暗殺者」は、新聞社の建物に来て、J.ニヤトロとエレベータに乗り合わせすらした。特にこの出会いは、「殺し」を拒否することを決心させるほどに、B.マサラに影響した。今、ベルナールは、警察の保護下にあり、捜査が行われている。

 ジンバブエ・ジャーナリスト同盟議長バジルドン・ペタは、「暗殺者」の告白にコメントしつつ、今日、国内では、ジャーナリストに対する脅迫が頻繁に起こっていると指摘した。その多くの者は、今年初めから土地所有権の移管政策において権力の手先となった解放戦争の元ベテランにより殴打された。彼は、特務機関のスキャンダルに注目しない訳にはいかないと訴えた。

 「デイリー・ニュース」は、1999年3月、「実際に起こっていることを話す」とのモットーの下に、ジンバブエで発行を開始した。同紙は、6月に行われた議会選挙前に野党側に直ちに立った。同紙の発行部数は、政府の「ヘラルド」が5万部であるのに対して、11万部に達した。

 2001年10月18日、西側特務機関がテロ組織とジンバブエ大統領ロベルト・ムガベの関係の可能性に関する情報を調査し始めたことが明らかになった。「ジンバブエ・スタンダード」紙によれば、テロの手段としの麻薬拡散と闘い、リビアの指導者ムアマル・カダフィにより出資されている南アフリカ共和国のムスリム組織パガドの話である。公表されたのは、地域研究組織「イスラム問題アナリスト」により発表された報告書だった。そこには、ムガベとカダフィがムガベが戦っているジンバブエの白人共同体にパガドをけしかけると脅したと主張されている。ある情報によれば、2001年7月のジンバブエ訪問時、カダフィは、在ハラレのパガド活動家と会見した。その外、彼は、ジンバブエから白人を追い出すことをインド人共同体の現地ムスリムに呼びかけた。失敗した場合、彼は、ジンバブエの白人にテロを行い、彼らを国外に追放するために、パガド中の刑事犯を利用すると脅迫した。報告書に従えば、ジンバブエ当局は、前科を有するパガドのメンバーが南アフリカ共和国との国境 の移民当局を通過できるように、特別措置を採った。

 2001年11月、ロベルト・ムガベ大統領は、個人警護の強化のために、リビア特務機関将校の打撃支隊を呼び寄せた。「ジンバブエ・インデペンデント」紙によれば、この緊急保安措置は、5ヶ月後に迫った来るべき大統領選と関連して採られている。同紙は、ジンバブエ諜報部筋を引用して、20人のリビア人から成るグループが、現地特務機関職員、特にムガベのボディーガードの訓練のために到着したと伝えた。「ジンバブエ・インデペンデント」は、大統領が、勢力を集めつつある民主改革運動とそのリーダー、モルガン・ツヴァンギライとの対立の先鋭化を考慮して、少なくとも自分の安全問題を懸念したと指摘した。

 英国の「デイリー・テレグラフ」は、エリート部隊の「数百人のリビア軍人」のジンバブエ全土の秘匿地点への配置について伝えた。同紙は、ジンバブエ特務機関の多数の職員がムガベの支持を止めたため、外国人の援助に頼らざるを得ないと主張している。

 2002年2月19日、カナダ王立乗馬警察(CRCP)がジンバブエ大統領ロベルト・ムガベ暗殺を目的とした陰謀の可能性に関する捜査を行っていることが明らかになった。CRCP代表ガイ・アミユトは、警察がジンバブエ大統領に対して予想される陰謀の存在に関する捜査に着手したことを確認したが、捜査上の秘密の保持のために、何らかの詳細を伝えることを拒否した。入ってきた情報によれば、カナダのDickens and Madson社は、可能な限り早期にムガベの除去とクーデターを組織するように求めたこのアフリカの国の野党党首モルガン・ツヴァンギライとの会見の50分間の秘密ビデオ記録を撮った。Dayly Mail & Guardianの報道によれば、カナダ外務省代表カール・シュヴェンゲルは、外務省職員が犯罪意図に関して証明するこの情報をしかるべき機関に伝えたと表明した。Dickens and Madson社社長アリ・ベン-メナシは、会見中、会話が「クーデター」又は「大統領の排除」について行われたと確認した。カナダのプレスの報道によれば、ビデオ記録でツヴァンギライと確認されている人物は、ムガベ「除去」の場合、軍人が権力を掌握し得る懸念を表明していた。

 ベン-メナシュは、各種情報によれば、イスラエル特務機関の元エージェントである。各時期、彼は、イスラエルの防諜部「シン・ベト」及び対外諜報部「モサド」の正職員だった。1990年、アリ・ベン-メナシュは、近東のアメリカ人人質4人の解放と交換に、米国製軍用輸送機のイランへの売却に関する取引に関する事件について、米国で無罪判決を受けた。

 同日、欧州連合外務相会議は、同国当局による民主的基準の違反と関連して、ジンバブエに対する限定的「指向性制裁」の導入について発表した。文書では、同国当局が欧州の選挙監視者の業務に障害を創出したと掲げられている。特に、制裁採択に関する決定には、在ジンバブエEC監視団団長 ピエール・ショリ(Perre Schori)の最近のビザの停止と、続くジンバブエからの追放が影響した。その結果、EC閣僚達は、約30人の監視員全員をジンバブエから召還するすることで合意した。

 2002年5月1日、英国のGuardian紙の通信員アンドリュー・メルドラムは、偽情報の流布の嫌疑により、ジンバブエで逮捕された。水曜日、彼は、首都ハラレの中央警察署に移送された。ジャーナリストは、ムガベ大統領支持者による女性殺害に関する情報の一連の現地マスコミとGuardianへの掲載と関連して逮捕された。拘束は、最近採択された「情報アクセス及び私生活の保護に関する」法律に基づき行われた。有罪承認場合、ジャーナリストには、禁固2年又は罰金10万ジンバブエ・ドルの処罰の恐れがある。アンドリュー・メルドラムは、米国市民である。彼は、1980年の独立獲得直後にジンバブエを訪問し、永住権を有している。以前、2002年3月15日に施行された上記法律の違反に基づき、Daily Newsのジンバブエ人ジャーナリスト、ロイド・ムジバとコリン・チバンザが逮捕された。

 2002年6月15日、ジンバブエ特務機関は、外交官の地位と一致しない国内での政治活動に対して、駐ジンバブエ英国高等弁務官ブライアン・ドネリーの移動を終日監視下に置いた。政府系「ヘラルド」紙が公式筋を引用して伝えたところによれば、ドネリーのジンバブエの内政干渉に関する議論の余地がない情報を得た後、彼に対して、「公然監視」 が設定された。

 同筋は、在ハラレ英外交使節団長が「ロベルト・ムガベ大統領の合法政府の破壊を目的とした活動に関与している」と指摘した。ジンバブエの元宗主国として、英国は、内政干渉と主要野党「民主改革運動」の支援において、アフリカ南部の同国当局により、しばしば非難されている。

 2002年8月29日、英特殊部隊SASが予想されるジンバブエからの英国市民の救出を準備していることが明らかになった。特殊演習は、同年9月末に予定され、その目的は、英国人農場主のジンバブエから南アフリカへの輸送に備えることである。これについては、Daily Telegraphは伝えた。演習は、9月末から12月まで行われた。演習では、約300人の空挺兵が行動し、3ヶ月間、新しい輸送機С130J「ハーキュリーズ」からパラシュート降下した。兵士には、RAFの輸送機C17 Globemaster、エアバスVC10及びC130J×2機 が随行した。演習には、南アフリカ国防軍(SANDF)も参加した。

 英国防省は、演習がジンバブエ情勢にいかなる関係も有さないと表明した。このことは、英外務省が確認した。「緊急救出計画は、世界のほぼ全地域に対して存在するが、我々には、ジンバブエでのこのプログラムの実行計画はない」と、英外務省報道官は語った。

 ジンバブエからの大規模救出の可能性は、ムガベ大統領が白人農場主を追い払う試みに着手した後に起こった。彼は、残った4,500人の白人農場主の内、2,900人に8月8日までにいかなる補償もなく自分の土地を離れるように命令した。約60%は、この指示を履行することを拒否した。その結果、300人が逮捕された。彼らは、政府命令不服従で起訴されている。

 この前日、ジンバブエ最高裁判所は、54の白人農場の所有権剥奪に関する命令が法律に抵触すると決定したが、ムガベは、裁判所の決定を無視している。彼は、白人農場主と交渉を行うことを拒否した。ムガベは、最良の農場地の70% が白人農場主の手に渡った植民地の不公平さを修正しようとしていると伝えた。一方、農場主は、土地の再配分には同意したが、武力を行使した追放には同意していないという。

 2003年2月28日、ジンバブエ国家保安機関職員は、主教が拷問及び弾圧の犠牲者 に関する祈祷式を催した後、ブラヴァイオ市カトリック大主教ピウス・ヌクベを尋問した。保安将校は、市の聖マリアの集いでの祈祷実行の翌日である2月28日、以前政府宛の厳しい非難に対して制裁の脅迫を 再三受けていたヌクベ大主教を尋問しに来た。

 「彼らは、私が特務機関の非難のための演壇として祈祷式を利用したと私を非難した」と大主教は表明した。 「彼らは、テレビカメラを持った外国人ジャーナリストが礼拝に立ち会ったことが気に入らなかった」。

 ヌクベの言葉によれば、数人の国家保安エージェントが、2月27日の礼拝自体に立ち会わせ、恐らく、大主教を逮捕しようとしたのだろうが、有名な主教を取り囲んだジンバブエと南アフリカ共和国の他の教会指導者がこれを妨げた。

 4時間の礼拝には、12人の元囚人が参加し、彼らが受けた拷問について集まった人々に話した。「この礼拝は、人権の尊重への呼びかけとなった」とヌクベ大主教は表明した。我が社会は、人々が自由に話すことを恐れるほど脅かされている。教会の代表たる我々は、これらの人々に知る機会を与える義務を有する」。

 2月24日、ヌクベ大主教と約20人の他のジンバブエの聖務執行者は、ジンバブエとオーストラリアのチーム間のクリケット競技時、ブラヴァイオ王立スポーツ・クラブ領域で行われた抗議デモに参加した。当時、警察も、聖務執行者を拘束できなかった。

 それにも拘らず、最近、ジンバブエ警察は、教会代表を少なからず逮捕した。つまり、2月14日、ブラヴァイオにおいて、女性の権利侵害に反対するデモをビデオカメラに撮ったイエズス会の司祭ナイジェル・ジョンソンが拘束された。2月28日、国内の聖職者の迫害に対して警察本部庁舎の側でピケットを行ったプロテスタント組織「国家牧師会議」の19人のメンバーも逮捕された。

 2003年6月7日、ジンバブエ大統領ロベルト・ムガベは、反政府行動へのジンバブエ野党の扇動で米英を非難し、これを現政権転覆の試みと呼んだ。

 大統領は、野党の1週間に渡る反政府抗議行動後、これについて表明した。民主改革運動党首モルガン・ツヴァンギランが率いる野党は、新たな反政府の波を立ち上げ、R.ムガベの退任を要求した。M.ツヴァンギランは、金曜日、国家反逆の嫌疑で逮捕された。

 2002年のR.ムガベの大統領再選後、野党指導者M.ツヴァンギランは、選挙における不正を口実に、彼の退任を常に要求している。

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最終更新日:2004/04/07

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