ナジブラの死の秘密

全てに献身的だった大統領は、祖国に忠実だった。

ウラジミール・アンドリアノフ
ウラジーミル・プラストゥン

 ロシアの伝記研究所は、V.アンドリアノフとV.プラストゥンの論文、「ナジブラ又はナジブ:生と死」の発表を準備している。著者は、長期間、アフガニスタンで研究し、同国の問題を良く知り、自分の研究対象、彼の盟友及び政敵としばしば会見した。若干要約して発表される論文は、傑出したアフガンの政治活動家の最後の年月と悲劇的な死に充てられている。

 カルマリとナジブラの交代は、総じて、合法的かつ正当だったが、簡単には程遠かった。これらの人物は、当時、余りに比較にならなかった。

 疑う余地のないカリスマを備えていたバブラク・カルマリは、十分な根拠を持って、アフガニスタンの新しい歴史を(N.M.タラキ、並びに宗教敵対派の指導者B.ラバニ、S.A.ゲイラニ、S.モジャッダジと共に)具象化し、近代史の速度は、アフガン社会を中世から駆り立てた。

 ナジブラの権力掌握と共に、国の政治及び生活システムにおいて、現実的、かなり深遠な変化が始まった。彼は、アフガニスタン民主共和国の初代大統領となった。このポストへの彼の選出は、民族祖国戦線(二院制)代議員により実施され、アフガニスタンの一連の著名宗教権威者が含まれたウレム会議により承認された。

 現地では、現地及び伝統的部族権威者の権力下にある「灰色地帯」も含めて、連合権力機関の創設が始まり、そこでは、自衛隊が創設され、住民は、食料その他の政府援助を受け取った。

 何よりも、著名な元「ハリク派」とナジブラの正しい協力により、アフガニスタン人民民主党における派閥闘争の緊張も、若干鎮めることができた。アフガニスタン人民民主党では、どの旧派閥とも自分を同一視しない専従職員層の形成が始まった。

 緩慢に、苦労して、国家権力への広範囲な層の住民の関係も変えられ始めた。カブールの敵ですら、民族和解政策の最初の成功を確認せざるを得なかった。しかしながら、国とその大統領の主な試練は、その先にあった。

 1986年は、アフガンだけではなく、恐らく、世界史においても、岐路と考えられる。ザヒル・シャーが国家、S.A.ゲイラニ及びS.モジャッダジの政府を率いる公式提案に至るまでの民族和解に関する交渉を始動させ、カブール体制は、当時、ムジャヒディンに軍事的勝利の期待を許さないソビエトの支援を肩に感じつつ、自分の堅固さを確信していた。彼らの中で崩壊過程が強化され、国内では、総じて、平和への牽引力が優勢を占め始めた以上なおさらであった。

 同時に、M.S.ゴルバチョフ及びE.A.シェワルナゼにより発議されたアフガニスタンの和平調停に関するジュネーブ交渉過程が始動した。カブールにおいて、この知らせは、ショックを引き起こした。敵対派は、勝利が失われたかのように、現実的展望を感じた。

 ソビエト軍の行動の性格も変化し、その事後のアフガニスタン駐留と、これに付随する大量の損害及び出費は、意味を失った。アフガンの党・国家機構における崩壊も急成長し、その専従職員は、ムジャヒディンとの非公式接触の確立に至るまでの個人的生存方案を探し始めた。空前規模の汚職、国外への送金、貿易及びビジネス活動の衰退が、当時のカブールの特徴だった。

 それにも拘らず、ナジブラ体制は、明らかになったところによれば、かなりの堅固さを有しており、新しいロシア指導部側からの政治的背信後初めて倒れた。

 ジュネーブ・プロセスの開始と共に、米CIA、NATO本部庁舎の専門家を含む西側アナリスト、並びに多くのソビエトの「政治学者」は、ナジブラ体制にソ連軍撤退後最大で2〜3ヶ月を与えていた。ソビエト外務省、KGB、GRUの評価も、ムジャヒディンによるカブールの権力奪取の場合、何よりも、中東地域及び中央アジアにおける最も予測できない事態の否定的展開の可能性に関する警告を含んでいた。同じことについては、ソビエト指導部との会談において、アフガンの活動家も警告していた。残念なことに、それら全ては、概して的中したか、更に的中し得る。

 しかしながら、「プロセスは既に始まっていた」。この条件下において、ナジブラは、この条件下において、最大限可能な自分の立場の強化のために、国家機構を動員する意思と決断力を持ち合わせていた。ソビエト側も、カブール政府の強化のために、ソ連軍撤退までに残された時間を最大限利用して、自国の努力と援助の活発化を約束したことを語るべきである。

 並行して、ナジブラに敵対する勢力の活動も低下した。主たる決戦がアフガニスタンからの最後のソビエト兵の撤退後に始まることが明らかになりつつあった。

 1986〜1987年、駐アフガニスタン・ソビエト代表部は、以前のソビエト機構の絶対的影響力と支配下から自機構を離脱させるアフガン側の希求を記録し始めた。その活動は、非常に用心深く、非公然に、アフガン保安機関、特に、軍事防諜部及びタレク将軍を長とする国家保安省内部保安局の部署の1つにより追跡され始めた。

 1988年、S.A.ケシュトマンドが率いるアフガン閣僚会議の機構の奥深くで、アフガニスタンでのソビエト側の出費と「犯罪」に関する情報の収集が開始され、必要な場合、一種の「白書」を提出することが計画された。

 この背後にいかなる計画があったのか、この活動におけるナジブラ自身の役割はどうだったのかは、S.A.ケシュトマンド自身と彼の秘書官N.マシルがこれについて話さない限り、結局、謎のままである。しかしながら、ナジブラがその経験から、いかなる事態の発展も完全に考慮することができ、そうしなければならなかったことが排除できない。

 何れにせよ、1989年2月15日がやって来た。A.S.マスードの部隊は、戦略的に重要なサラング峠を支配下においてが、民間の貨物の流れは継続された。冬は、これ以上何も起こらなかった。カブールの空港では、毎日、弾薬及び食料を積んだ7〜8機の輸送機が着陸し続けていた。今、この「機上」にだけ、カブールの「戦略的保証」が残されていた。明らかになったように、これも十分だった。ソ連の支援は、誇示され、アフガン指導部自体におけるナジブラの敵を含めて、全員がそれを見た。

 大統領は、この要素に素手で立ち向かったわけでは決してなかった。ソビエト側との合意により、弾薬及び燃料の相当な戦略備蓄、修理基地が創設された。国防会議を指揮して、ナジブラは、一連の守備隊、特に、カブールの中央軍団、ジャララバード、カンダハル及びヘラートの軍団を自分に忠実な職業制要員で強化することができた。ムジャヒディンにより完全包囲されたホスト守備隊は、英雄的に戦い続けた。しかしながら、大統領の主要措置としては、忠実で、装備及び教育が優秀で、機構的に国家保安省に含まれる国家親衛隊の創設を考えるべきである。その将兵は、最も激烈な地点において、戦闘の主たる負担を負い、首都の警備及び防衛を保障した。親衛ミサイル大隊の装備には、戦術複合体R-300(スカッド)、ルナ2-M、並びに非常に効果的な多連装発射システム「ウラガン」が存在した。装甲車両、砲兵、兵員によるこの部隊の充足は、1989年初めまでにほぼ定員状態に達した。

 若干の地域部隊も、ナジブラの支えだった。その中で最も目に見える地位を占めたのは、チャパーエフ・タイプの人民から現れ、後にナジブラの運命において悲劇的な役割を演じるジョーズガン州出身のウズベク人、A.R.ドスタムを長とする第53歩兵師団だった。

 堅固さに対する体制の試練は、1989年春に始まり、アフガニスタン共和国問題におけるパキスタンの公然たる干渉の出発点と考えられる。パキスタン国境警備隊、パキスタン正規軍の装甲車両及び航空隊の支援の下、野戦指揮官D.ハッカニの部隊は、A.R.サイヤフ及びY.ハレスの武装集団と共同で、ナンガルハル州都ジャララバード市に対する大規模攻勢に着手した。

 市の防衛と第1軍団の指揮は、彼らの間に一定の不和があったにも拘らず、ナジブラによりルジン将軍に委任された。自分の仕事のプロである将軍は、戦略的に重要なカマ村において敵集団を撃破し、アフガンのエネルギーの中心地、サルビ村方面への迂回打撃を撃退して、与えられた任務を素晴らしく遂行した。その結果、敵部隊は、ほぼパキスタン国境まで撤退した。

 ミフテルラム市に包囲された主として確固たる元「ハリク派」から成る第100砲兵連隊、並びにサルビ市の「ハリク派」守備隊がその最良の面を発揮したのは、不思議でもない。大統領の党内関係への客観的アプローチ、要員選抜における柔軟性、人々の心理の知識は、現実的成果を収め始めた。

 しかしながら、「ハリク派」の失地回復の試みは、既に間近だった。S.N.タナイ国防相の反乱は、新しいアフガン政権の全システムの背後に対する打撃となった。この野心的で、政治的には程遠い活動家は、当初は、「自宅拘禁下での軍事顧問」として、後に、タリバンによるカブール奪取の際の自分の同僚及び同志に対する政治的追及のエージェントとして、タリバン運動の隊列において出世し続けている。

 A.R.ドスタムの第53歩兵師団の最も積極的な参加の下、タナイの反乱は、鎮圧され、元国防相自身は、パキスタンに亡命した。総じて、軍及び内務省における「ハリク派」大衆が反乱を支持しなかったことが特徴的である。

 大統領の行動スタイルにおける論理的な措置となったのは、著名な「ハリク派」M.A.バタンジャルの国防相任命であり、その就任と共に、「ハリク」信奉者とナジブラの「パルチャム派」の相互関係における全ての問題は、概ね解除された。

 国家権力の大きな軍事的成功となったのは、カブールから16kmのパグマン村の解放であり、これは、戦争の全期間に渡って、ソビエト軍ですらできなかった。この強化された地区からは、数百人の平和的住民の生命を奪った常時ロケット射撃が行われていた。パグマン奪取と、それに引き続く国家親衛隊と第53歩兵師団がその基盤を構成する政府軍の戦略的に重要なシャカルダル村とバルダク州都マイダン・シャフル市に沿った前進と共に、首都防衛の南西方面に対する奇襲の脅威が解除された。

 1991年春〜夏の戦役中、カブール防衛地帯の南部・南西部において、敵対派のもう1つの重要な拠点を撃滅することができた。一連のアラブ諸国からの傭兵が味方していたアフガニスタン・イスラム党のガルデス集団が撃破された。ホスト市守備隊の包囲解除と、パキスタン北西部国境の州、ハイベル及びバジリスタン地区のナジブラに肯定的な部族の居住地区、並びにパクティア州の大統領の出身部族アフマジャエフの影響地帯への進出に対する前提条件が創出された。

 敵対派の反応となったのは、パキスタン軍の支援の下でのホスト守備隊への大規模強襲だった。その維持は、カンダハル−カブール間の道路に沿った線への政府軍の撤退後、戦術的ナンセンスだった。しかしながら、ホストでアフガニスタン暫定イスラム政府を宣言する敵対派の意図に関して定期的に入ってくる情報は、ソビエト顧問をそこでの部隊集団の維持に固執させた。

 しかし、重要なのは、1991年中盤までに、ナジブラを首班とする体制が、アナリストの全ての予測を裏切り、しっかりと一人立ちし、外国、つまり、パキスタンの真の侵略に対抗できる確固たる耐久力を有していたことであり(そしてこれは、1991年までの1日に2〜3機の果かない水準のソ連の援助の下で)、当時、ムジャヒディンの背後には、パキスタンの軍用車両、米国、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、イラン、部分的にスーダン及びリビアの財政及び政治的援助が立っていた。

 ナジブラ自身は、当時、確信的に見えた。彼は、新しい条件下において権力基盤を強固に開拓し、特に都市住民中での彼の支持が成長した。国家権力は、かなり簡単に、国内の主要戦略地点を自分の手に維持した。両者が武力による紛争解決の無定見を確信した以上、敵対派との妥協の条件が徐々に成熟していた。大統領の個人的権威は、政治的比重及び実際の影響力に関して、ムジャヒディンの主要指導者すら顕著に上回り始めたほど強かった。対外政策舞台におけるナジブラの活動、国連総会への出席は、彼を国際的に有名にした。

 世界の多くの者は、「ソビエトの操り人形」が、実際には、経験豊富で、民主的なかなり開けた政治家で、全国民的コンセンサスの模索に重大な一歩を踏み出す用意があることを驚いて見た。それと共に、西側では、別のことも見られた。CIAの文書の1つで指摘されたところによれば、ソ連の精神・政治的支援の下でのナジブラの立場の強化は、時と共に、アフガニスタンでの連合暫定政府の形成の場合、国の指導者のポストに対する若干のムジャヒディン指導者のチャンスを奪い得る。

 不幸は、西からではなく、北からやって来た。1991年8月のモスクワでの事件、それに引き続くソ連の崩壊は、全てのアフガン指導部に大きな警告と共に受け入れられた。彼らは、アフガン問題に密接に従事していたD.N.ヤゾフ、V.A.クリュチコフ、V.I.ワレンニコフの退陣と共に、A.V.ルツコイ、P.S.グラチョフ、B.V.グロモフのようなアフガニスタン駐留経験のある新世代の政治家が彼らに交代することを内心期待して、新ロシアの状況の発展を不安げに観察した。

 ナジブラ自身は、新しいロシア指導部との関係整備のためにありとあらゆる措置を採ったが、総じて、アフガニスタン問題へのB.N.エリツィンの肯定的立場の下、彼の側近の若干の者達は、「破壊の喜び」から直ぐには抜け出していないことが明らかになった。

 ナジブラ体制と一緒に、講和の展望とアフガニスタン発展の民主的方針への期待が葬られた棺桶の蓋の最後の釘を打ったのは、A.V.コズイレフとA.V.ルツコイだった。

 1991年末、ソビエト軍人の解放に関する問題の審議のためのパキスタン訪問時、彼らは、しかるべき権限を有さずに、アフガンのムジャヒディンの指導者と一連の会談を行った。会談の文脈からは、モスクワが事実上ナジブラ政府の支援を止め、武力による権力問題の解決に白紙委任状を与えたことが分かった。冬にだけ緊張が解かれたが、アフガニスタンでは、通常、冬に戦わない。

 そのときまでに、アフガンの地には、新しいプレイヤー、先ず第1に、旧中央アジア連邦共和国の指導者が現れ始めた。アフガニスタン情勢は、彼らの安全の直接の脅威となった。アフガン周辺政策に最も積極的に介入したのは、ウズベキスタンだった。当時のアフガン北部の実際の主人であったA.R.ドスタム将軍は、既にソビエト時代、新しい条件下において自国の南部国境の安全の基本保証として彼に賭けたタシケントと密接な接触を有していた。

 率直に言って、ウズベク人のドスタム将軍には、他の道がなかった。彼には、アフガニスタン自体での死の脅威が個人的に存在していた。ドスタムの第53歩兵師団の部隊は、何よりも、パシュトゥン人が居住するカブール、バルダク、カンダハル、パクティア、ナンガルハル州において、積極的な戦闘行動を行っていた。彼らは、その頑強さでも、非妥協性でも名高かった。しかし、パシュトゥン人は、伝統的に国の代表民族であり、タジク人だけがそれに匹敵する以上、彼らを認めていない。残り全ては、「二流」の人間と考えられていた。ザヒル・シャー及びM.ダウド政権における彼らの代表は、文字通り、指で数えることができた。こうして、ナジブラの「番犬」と考えられていたA.R.ドスタムは、個人的生存、並びにアフガニスタンのウズベク民族(そのボスには、彼が実際になった。)への尊厳ある政治的及び社会的未来の保障の容易ならざる問題に直面した。特に彼は、1992年4月28日に創設されたアフガニスタン民族イスラム運動、1997年秋にはアフガニスタン救国連合イスラム・民族戦線の形において、その周りでアフガン北部の民族勢力の結集が起こった人物となった。

 アフガン国内舞台での勢力配置における全面的変革の不可避を感じて、1992年初め、A.R.ドスタムは、タジク人のアフガニスタン・イスラム協会指導者である未来の大統領B.ラバニ教授、アフガニスタン・イスラム協会観察会議の長、野戦指揮官として最も有名なA.S.マスード、並びにマザリを長とするシーア派ハザラ人のアフガニスタン・イスラム統一党の派閥の1つの指導部と直接関係を樹立した。

 この反パシュトゥン連合の努力により、カブール及びそれへの接近経路上に存在したA.R.ドスタムの部隊集団の主な役割の下、4月革命15周年と一致した1992年4月27〜28日に、国家クーデターが実施された。

 A.R.ドスタムの行動は、勿論、裏切りと呼ぶことができるが、この言葉は、大政治におけるゲームのルールには余り適用されない。ナジブラ体制は、クレムリンでの変革後、運命付けられていた。問題は、1つだった。誰が、いつ、これを行うのか。A.R.ドスタムには、ムジャヒディンの目に自分を復権させようと試みる非常に重みのある根拠が存在していた。逆の場合、ウズベク人の将軍には、パシュトゥン人の大統領よりもかなり恐ろしい死が待っていたはずのなのは疑いない。

 反乱は、かなり迅速に実行された。国家親衛隊だけが、若干の抵抗を示した。党及び国家機構の専従職員、カブールその他の大都市の住民の一部、主としてインテリゲンチヤの逃亡が始まった。反乱兵は、余りこれを妨害しようとはしなかった。祖国党のほぼ全ての主要活動家は、間もなく移民を名乗り出た。彼らの一部、並びに軍事司令部の多くの代表は、起こった変革を受動的に認め、いくつかの場合、自分の職務を維持した。今でも驚くべきことだが、国家保安相グリャム・ファルク・ヤクビ将軍だけが射殺された。アフガニスタンでも、旧ソ連でも、彼の死は容易に受け入れられたようであり、将軍は、非常に多くのことを知っていた。どう見ても、彼は、自分の個人文書も廃棄できたようである。

 ナジブラは、ゴルゴダの丘に登り始めた。大統領は、結果が知られているように、多数の盟友の亡命にも拘らず、最後まで自分のポストに留まる原則的決定を採択した。彼は、ジリクシュの大統領官邸のバンカーにいた。ロシア大使館を含むどの駐カブール大使館にも、政治的庇護の提供に関する要請はなかった。大統領の決定により、国家保安省の信頼できる部隊が随行して、彼の警護により、ナジブラの家族、妻のファタナと3人の子供、並びに妹のレイラがカブール空港に運ばれた。彼らは、インドに飛び立つことができ、恐らく、今日も滞在している。彼の弟である国家保安省警護局長アフマジャイ、彼の官房長トゥヒ及び身辺警護長ジャフサルが、大統領と共に残った。

 4月28日の昼までに、ナジブラ側近の家族は、政治家としての自分を維持して、後に国内の民主勢力を統合するために、アフガニスタンを離れるように彼を納得させた。しかし、既に遅かった。約16時間、大統領の自動車は、飛行場の警備を担当していた後のアフガニスタン民族イスラム運動の空輸部長、ドスタム軍のオマル・アク指揮下の部隊により、空港への玄関で停車させられた。

 ナジブラの警護は、武装解除され、彼自身は、市に戻らざるを得なかった。彼の逮捕の試みは、行われなかった。同日の終わりまでに、前大統領には、駐カブール国連使節団において、政治的庇護が提供され、彼は、5年の長きをここで過ごした。そこに滞在しつつ、彼は、国外の家族、自分の盟友と電話連絡を維持する機会を有し、国際的事件の渦中にいた。彼は、更にもう1つの裏切りを経験する運命だった。

 1992年秋、G.ヘクマティヤル及びA.R.サイヤフの連合軍が襲撃したロシア大使館のカブール撤収後、モスクワでは、ソビエト軍と共にアフガンの武装敵対派と対峙したナジブラ体制の元専従職員への政治的庇護の提供に関する問題が審議された。彼の生命は、アフガニスタンにおいて現実の脅威に曝されていた。ナジブラは、他の多くのアフガン人と同様、「モスクワは、過去のアフガン体制の遺物と係わることを希望しない」という当時のロシア外務相A.V.コズイレフのインタビューでの発言にショックを受けた。

 代わってカブールに対する支配を行使していた政府と大統領は、変わることなく、国連にナジブラ引渡を要求した。しかしながら、国際共同体は、その原則的立場に忠実だった。

 並行して、1995〜1996年、ナジブラへの政治的庇護の提供に関する問題は、この問題に関してB.ラバニ大統領と接触していた米国務省により、国連の支援の下で提起された。モスクワは、この場合、押し黙っていた。これは、驚くべきことではなく、アメリカ人の立場は、ナジブラが何者で、何者になることができたのか、ということを理解させる。

 権力を奪取し、カブールを攻略し、カブールの「インターコンチネンタル」ホテルのウィスキーの備蓄を戦車のキャタピラで公然と踏み潰し(ソビエト・アフガンの株式会社AFSOTR及びASTRASの倉庫にコンテナで横たわっていたロシアのウォッカは、手が付けられずに残り、更に4年間、密かに売却されていた。)、ムジャヒディンは、その前後の多くの者のように、権力闘争のためには、後ですべきことを事前に知っておく必要があることを理解した。

 「イスラム党」の国外のパトロンと主唱者は、明らかになったように、アフガン戦争には金を出す用意はあっても、アフガニスタンの平和には決して出さなかった。北部国境を通した人民経済貨物の納入は、当然のことながら、中断された。ムジャヒディン自身は、国内の経済生活を組織するだけではなく、自分の行政機構の活動を組織することもできなかった。飢餓は、地方だけではなく、大都市でも始まった。国は、現物経済、民間部門ルートによる対外貿易で活き続けた。

 ムジャヒディンの勝利後最初の数ヶ月間、アフガンの機構、何よりも戦力官庁における自国の顧問的立場の指標において、旧ソ連水準に近づき始めたイスラマバードは、ソビエトの愛他主義とは決して異ならなかった。

 カブール、その他の都市では、飢餓デモが始まり、その時(ここに、歴史のパラドックスがある!)、しばしば、「ナジブラは健在だ!」というスローガンが響いた。若干の演説者は、特に首都において、ソ連という国がもはや存在していないことを忘れて、ソビエト軍のアフガニスタン復帰を要求することまで話し始めた。これは、実際にあったことである!そのような感情は、アフガン人がタリバン執行下での「真のイスラム国家」建設構想が広まっていることを実地に理解した1995〜1996年に特に大規模となった。

 アフガニスタンへの外部の関心は、ロシアを迂回したCISの中央アジア諸国からの石油・ガス輸送プロジェクトの出現と共に復活した。イランの経済的及び政治的封鎖を更に厳しくする米国の希求と結び付いたトルクメンにおける「ガスプロム」の拙劣な政策、思わせ振りなタシケントの排露派は、非常に議論のあるアフガンの経路、つまり、シビルガン−マザリ・シャリフ−テルメーズ−バイスン−ブハラへの予想支線有するトゥルグンジ−ヘラート、更にインドまでの将来の支線を有するカンダハル−クウェッタ−カラチの選択を決定付けた。

 このプロジェクトの下では、誰にも必要とされていなかったタリバン運動の1994年の復活に至るまで、多くのことが関係していた。これについては、タリバンの主要かつ当初の目的が、首都で権力の象徴であるカブールでは決してなく、計画中の交通路システムにおける結節点であるヘラートであった事実が反駁の余地なく証明している。

 同時に、アフガニスタン自体の状況は、「全員対全員」の性格を徐々に獲得しながら、先鋭化が避けられなかった。タリバンがその完全な奪取により「国を統合する」当初の使命を遂行できず、1997年のその試みがアフガニスタンを果てしない民族間紛争の瀬戸際に追いやっただけではなく、徐々に統制が取れなくなったことが明らかになり、このことは、当初は猫をかぶって、後には増大する警告と共に、パキスタン人にも、アメリカ人自身にも、再三認められ始めた。

 同時に、ガスパイプラインまでには至らなかった。西側は、その周りで政治的プロセスを始動できる人物の捜索を開始した。現在のムジャヒディン指導者及びタリバン指導部の誰も、全国規模でその指導者として認められないことは秘密ではない。タリバンの長M.オマルは、現在までに、政治家ではなく、彼ら自身の手によるこの産物がホメインや、M.カダフィすらよりも興味深い人物に変わり得ることに気付いたワシントン及びラングレーのアナリストにとって、悪夢の登場人物にしかなり得ない。

 この背景においては、恐らく、ザヒル・シャー1人が残された。彼の推薦は、アフガン内部紛争の従来の全ての参加者により、口頭で受け入れられた。例外は、タリバンとその背後に立つイスラマバードだった。元アフガン国王は、既に在位期間、推測ではあるが、パキスタンの領土保全にとって潜在的に非常に危険な同国北西部国境のパシュトゥン人が居住する州に対する要求を一時も否定しなかった徹底したパシュトゥン民族主義者を自認していた。

 状況は、更に二重の意味を持ち始めたといえる。1993年、パキスタンとアフガニスタン間の仮国境が通っていた英国とアフガニスタン間で締結された「デュランド・ライン」の法的地位に関する協定の有効期限が満了した。どこが、新しい国境となるのか?イスラマバードにとって、これは、生死の問題である。パキスタンでは、ザヒル・シャーを巡るゲームがこの文脈においてどれだけ危険なのかを理解しており、彼らに決して賛成しない公算が大きい。

 既に百年以上、「デュランド・ライン」に沿って、大パシュトゥニスタンの亡霊がさ迷い続けている。その足跡は、70年代初めのパシュトゥン人の反パキスタン蜂起にも、それに代わるパクティア、ホスト、クナルの部族の反カブール行動にも反映している。80年代中盤、ナジブラが上手く利用したイスラマバード当局との「アヘン戦争」は、バジル及びアフリド族を騒がせた。同じ歩みは、タリバンの背後でも聞かれている。パキスタンでは、ザヒル・シャーを巡るゲームがこの文脈においてどれだけ危険なのかが理解されており、実際に彼らに賛成しない公算が大きい。パキスタンのパシュトゥニスタンにおけるいかなる活動家も、今、それでなくてもイスラマバードが上手く監督していないシンド及びパンジャブの状況も加熱することができ、その後、関係国の外務省の専門家は、「デュランド・ライン」の北方ではなく、今のように南方の崩壊プロセスの結果を予測せざるを得ない。

 この下地において、西側の先見性のある若干の勢力が、ナジブラという人物を再び見出したことが排除できない。アフガニスタン国内における彼の人気及び権威の逆説的な成長、犠牲者のイメージ、高い個人的かつ組織者としての資質、総じて西側に好まれるアフガンの「テクノクラート」及び「リベラル」に対するこの個人の受入可能性、重要のなのは、1992年夏から明らかに獲得された確固たる反ロシア・アレルギーは、この活動家を米国の対外政策資源への彼の追加、又は維持にとって非常に魅力的な対象にした。彼の解放に対する段階的キャンペーンが始まった。

 しかしながら、生、後に死も、違った風に取り扱われた。タリバンによるカブール奪取は、突然起こった。僅かの時間で、A.S.マスード及びG.ヘクマティヤルの戦力、並びにアフガニスタン・イスラム統一党のハザラ人部隊は、互いの裏切りを非難しつつ、戦闘機材及び軍事倉庫を捨てて、市を放棄した。

 A.S.マスードは、国連使節団の要員がその壁の中に彼を決して拘束しようとしない以上、難民の群れの中に完全に隠れられると、彼の部隊と共に首都を離れることをナジブラに提案した。しかしながら、前大統領は、国に最後まで留まることを好んだ。彼は、1992年4月のアフガニスタンを離れる彼の試みが、住民中で軽い非難を受けたことを覚えていた。タリバンが国連代表部の治外法権体制をあえて侵害しないだろうと、ナジブラ考えていたのは明らかである。

 ナジブラの承認により、これまでずっと彼と一緒にいたI.トゥヒ及びジャフサルは、彼の隠れ家を離れた。彼らは、インドに到達することができ、そこで、以前に出国していたナジブラの家族に合流した。元国家保安省警護局長、彼の弟アフマジャイ将軍だけが、彼と一緒に留まった。

 事後の全ての事件は、市に留まったA.S.マスードの地下機構、並びにタリバン自身中における彼の代理人により可能な限り注意深く追跡された。

 前大統領が首都に留まっていることを知り、パキスタン特務機関は、直ちに反応した。イスラマバードでは、アフガン・パキスタン国境に関する全ての問題を永久に解決するユニークなチャンスが現れたことが理解された。計画は、単純で、その立案者にいかなる疑いも引き起こさなかった。パキスタンにとって、誘惑は、何らかの国際的に承認された規定に注意を向けるには余りに大きかった。

 タリバンの武装兵の集団は、国連使節団に押し入り、ついでにそこで略奪を働き、そのアフガン人職員を殴打した。ナジブラと彼の弟のアフマジャイは、逮捕され、1992年からアフガン特務機関の下で行動していたパキスタン諜報部の秘密アパートの1つに移送された。

 カブールには、多数のパキスタン特務機関の要員将校、並びにクーデターの試みの鎮圧の積極的参加者、並びに首都に残った著名なナジブラ支持者の摘発、拘束及び処刑に従事した上述のS.N.タナイを長とするタリバン側に移った元「ハリク派」のグループが集結した。

 その間、イスラマバードでは、少なくとも、遅かれ早かれ、不可避の報復がやって来るゲームの不文律の条件に常に違反しようとはしない全諜報史に渡り最も大胆かつ恥知らずな行為の1つの実施が全て準備されていた。しかし、当時のその生活がその祖国の歴史に印象付けられたアフガニスタンとナジブラのために、報復すべき者はいなかった。

 カブールには、アフガン政策と関係する国際層で有名なアスラム・ベク将軍が現れた。かつて、彼は、陸軍参謀本部を指揮し、その後、パキスタン軍諜報部において指導職務を占め、既にジヤ・ウリ・ハク時代から最もデリケートな依頼を遂行していた。彼には、要員諜報員である弟と、将校団が随行した。彼らは、大統領官邸で鹵獲されたナジブラ官房の用紙に印刷され、パキスタン特務機関の地下で偽造された文書を有していた。ナジブラの権力在任期間の日付のその文書は、同国とパキスタン間の公式かつ永続的な国境としての「デュランド・ライン」のアフガニスタン大統領及び政府による公式承認に関する条約だった。

 これは、パキスタン軍人グループの主目的でもあり、いかなる代価をもってしても、かつて1人のパシュトゥン人も行わなかったこと、つまり、この「条約」の署名をナジブラに強制することだった。

 ナジブラは、何度も裏切られた。しかし、自分の最も恐るべき瞬間、彼は、アフガニスタンも、自国民も、自分も売り渡さない力を見出した。既に青年時代から「雄牛」のあだ名を付けられていた並外れた力のおかげで、彼は、警備を蹴散らし、将校の1人から拳銃を奪い、アスラム・ベクの弟を射殺(あるいは、重傷を負わす)ことができた。その後は、悪夢だった。ナジブラは、恐るべき拷問にかけられたが、屈しなかった。彼の敵ですら動揺し、バリケードのどちら側にいようとも、全アフガン人を憤激させた残虐な処刑は、彼の生命、イスラマバードの悪魔的な計画、大きな点に関して、「デュランド・ライン」北方へのパキスタンの政治方針の下に足跡を残した。

 この処刑は、早期勝利の希望をタリバンから奪った。反タリバン連合の各指導者は、自分の最も確実な最後を目にした。これは、マザリ・シャリフ、タルカン、バーミヤン市を訪問した外国の特使とのいかなる会話よりも具体的だった。

 アフガニスタンにとっての悲劇は、この処刑が発展の民主的方向、団結、戦争からの脱出の最後の希望を国から奪ったことにある。これは、西側のカードの中の「切り札」も奪った。ロシアについて言えば、ここでは、中央アジアだけではなく、CIS南部全体における我が政策も失われたことについて、誰も考えもしなかったようである。

 ナジブラの生、重要なのは、彼の死は、有名なアフガンの歴史家ゴバルの表現によれば、アフガニスタン史の急流と呼ばれるものからの彼の存在の流入を分離したダムをを決壊させた。

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最終更新日:2004/03/15

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