レバノン空軍

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 この近東の小国の現代史は、事実上、アラブ人、キリスト教徒、ユダヤ人、シリア人及びイスラエル人の絶え間ない対立の縮図である。同軍種の正常な存在のためには、要員のある程度の訓練と絶え間ない資金供給が必要とされるため、これらの戦争において、航空隊は、余り大きな役割を演じていない。

 レバノン空軍は、2機のパーシバル・プロクター訓練機と共に、英国人専門家が国内に到着した1949年に創設された。国内に存在する全ての飛行場(それは少なく、ベイルート、バールベク、クラヤート、ラヤーク)は、既にフランスの主権時代に建設され、当時かなり近代的な施設だった。

 翌年の1950年、空軍機は、「チプムンク」T.30訓練機×11機、訓練及び輸送用に使用されていた「ダフ」及び3機のサボイアSM.79が充足された。1952年、輸送機は、「ハーバード」×6機の受領により著しく強化された上、戦闘状態にあるその機数は、徐々に増加した。

 本格的な最初の軍用機は、1954年になって初めてレバノンの地に現れた。これは、「バンパイア」T.55教育機×4機と攻撃型FB.52×10機だった。

 国内騒擾は、1958年にアメリカ軍の上陸をもたらすと同時に、このようにして、西側は、レバノンのアラブ連合共和国への併合を許さなかった。徐々に空軍力も向上された。「ハンター」×6機が受領され、並びにイラク及びシリア空軍の装備から解除された機体により、「ハーバード」の機数は、絶えず増加した。

 空軍編成下の最初のヘリは、1961年に現れた。当時、「アルエット」2×4機、1963〜64年に更に「アルエット」3×5機が導入された。1965年、更に13機の「ハンター」(その内3機は教育・戦闘機)の受領と共に、もう1個飛行隊を編成することができた上、「バンパイア」は、徐々に戦闘編成から外され始めた。1966年、ジェット教育機CM.170「マジステル」も導入され始めた。

 1964年、レバノン政府は、米国から「クルセーダー」×18機又は「スカイホーク」×16機を購入しようとしたが、フランスの圧力の下、新しい「ミラージュ」3を調達することが決定された。1965年、「ミラージュ」戦闘機10機と教育・戦闘機2機 が発注された。その外、装備用に「マトラ」R.530ミサイル15発を購入する計画があった。この契約に関する納入は、1967年9月に始まり、1969年3月に終わった。同時に、レバノン人パイロットは、フランスで訓練を受けた。しかしながら、結局、5機は、直ちに格納庫に仕舞われ、残りは非常に限定的に使用された。新参の「ミラージュ」は、多くのパイロットが好んだ「ハンター」に取って代われなかった。その外、1975年に同機の追加分が発注されたが、内戦勃発までに6機だけが受領された。

 陸軍の所要のために、1973〜74年、イタリアからAB-212ヘリ×6機が調達された。

 国内におけるパレスチナ人戦闘員訓練基地の存在は、状況を著しく不安定化させ、レバノンを今に至るまで続く内戦状態に陥らせた。その外、1976年 、シリアは、自国軍を投入した。シリアの攻勢支援のために、「ハンター」は、数ソーティーを実行し、ヘリはより活発に使用された。

 戦闘行動の第1段階終了後、「マジステル」数機、並びに「ブルドッグ」訓練機6機が受領された。同時に、政府は、「ミラージュ」と「ハンター」に対する代替機を探し始めたが、新たな緊張段階が全ての計画を中断させた。

 1982年、イスラエル軍は、レバノン南部を占領したが、この際、シリア兵との衝突なしでは済まなかった。同時に、レバノン陸軍は、ドルーズ人の不法武装部隊と共に、戦闘行動を開始した。航空隊も広く使用されたが、実際、余り芳しくなかった。つまり、1983年夏の2週間だけで、防空火力により、4機の「ハンター」攻撃機が一挙に失われた。この後、空軍は、激戦では使用されず、レバノン軍は、崩壊の瀬戸際にあった。

 現在、地域における全般環境の著しい改善にも拘らず、レバノン空軍は、悲惨な状態にあり、良くて、数機のヘリが活発に使用されているが、政府軍の需要を完全に保障することはできない。

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最終更新日:2004/04/08

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