モーリタニアの情報機関

■情報共同体

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国家保安局(Direction de la Surete de l'Etat − DSE):長官Mohamed Abdallahi Ould Abdallahi DEDDAHI

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国家親衛隊(la garde nationale):指揮官Ainina Ould Eyih大佐(彼の前は、2003年6月8日の反乱未遂後に解任されたWalad Ould Heimdoune大佐)

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保安自動車化グループ(le groupement de securite motorisee):指揮官Ould Bouzouma

■省

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内務・郵便・通信省(Ministere de l'Interieur, des Postes et des Telecommunications):内務相Lemrabot Sidi Mahmoud Ould Cheikh Ahmed

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法務省(Ministere de la Justice):法務相Monsieur Sghair Ould M'Bareck

■一般情報

 7〜11世紀、モーリタニア南部は、中世の西アフリカ国の構成下に含まれ、北モーリタニア領土には、ベルベル・サンハジャ人の国家体が存在した。11世紀中盤、同国の領土で、モロッコと西アルジェリア領土も含んだアルモラビドフ国が生まれた。13〜14世紀、モーリタニア南部は、中世のマリ国の影響範囲に入ったが、モロッコと密接な関係を維持し続けた。14〜15世紀、アラブのマキル族が侵入し、モーリタニアのイスラム化及びアラブ化のプロセスを加速させた。アラブ人は、国内で支配的な地位を占め、ベルベル・サンハジャ人 とオアシスの半農だったハラチン人に対して支配を確立した。

 15世紀、欧州人の侵入が始まった。ポルトガル人とスペイン人は、黒人奴隷、並びに金及びアラビアゴムの搬出のために、沿岸(アルゲン、ポルテンディク) に拠点を創設した。オランダ人、イギリス人、フランス人が 、彼らと競争し始めた。後者は、主としてセネガル川沿いに、貿易商館を創設した。1783年のベルサイユ会議(英、仏、スペイン)により、モーリタニア沿岸は、フランスの排他的利益範囲と認められた。

 1900年、フランスとスペインは、西サハラにおける影響範囲の画定について合意した。外交と軍事力を利用しつつ、フランス人は、1903年、アラブのトラルザ族及びブラクナ族に対して保護領を設置し、その領土は、1904年、仏領西アフリカの枠内において「モーリタニア民間領土」 に編入された。1905〜06年、トラルザ族とブラクナ族の抵抗は鎮圧され、フランス人は、中央モーリタニア に定着した。1909年、フランス軍は、モーリタニアの遊牧民との粘り強い戦いの後、独立闘争におけるモーリタニア人の主要な砦だったアドラル州を占領した。1920年、同国は、セン・ルイを行政府とするフランス植民地として公式に宣言されたが、住民の武装抵抗は、事実上、30年代中盤まで続いた。

 1939〜45年の第二次世界大戦後、国の独立のための闘争は、新勢力と共に展開された。40年代後半、最初の政党、ホルム・ウリド・ババンを長とするモーリタニア連帯(1946年)と、モクタル・ウリド・ダッダが率いるモーリタニア進歩同盟(1947年)が現れた。モーリタニア人の武装行動を含む民族解放運動は、1956年のモロッコ独立宣言後、特に強化された(1956〜57年のアドラル、1958年のフォート・トレンク等)。

 1958年、フランスは、フランス連邦の枠内において、モーリタニアに自治権を付与せざるを得なかった。1960年11月28日、ヌアクショット市において、モーリタニア・イスラム共和国の独立が宣言された。

 1961年5月、憲法が採択され、モクタル・ウリド・ダッダが大統領に選出された(8月から)。1961年12月に行われたモーリタニア統一議会は、唯一の与党となったモーリタニア人民党に国内の全政党を統合した(憲法へのしかるべき修正は、1965年に行われた。)。独立獲得後、モーリタニアは、1976年に旧スペイン領サハラの南部(今日の西サハラ)を併合したが、独立のためのポリサリオの3年間のゲリラ戦の後、この領土を断念せざるを得なかった。1991年、全野党が合法化され、新憲法が採択された。しかしながら、最近行われた複数政党制選挙は、「不純」なものと認められ、モーリタニアは、事実上、一党国家のままである。

■2003年6月8日のクーデター未遂

モーリタニア大統領マーウイー・ウリド・アフメド・タイア 2003年6月7日から8日の夜(土曜日から日曜日)、モーリタニアにおいて、クーデター未遂が起こった。当初、首都ヌアクショットの大統領宮殿及び参謀本部庁舎付近で 、激しい交戦が始まった。そこには、戦車縦隊が前進した。ヌアクショットの中心部では、砲撃音が聞こえ、マーウイー・ウリド・アフメド・タイア大統領の官邸上空には、飛行機が現れ、高射砲が射撃を開始した。反乱を起こしたのは、機甲兵と空軍の将校団だった。政府軍と反乱軍間の戦闘は、ほぼ1日続いた。 砲弾の爆発音は、全市内で聞かれたが、最も活発な戦闘行動は、その中心部と南部、特に機甲旅団の駐屯地区で行われた。モーリタニアでのクーデター未遂の組織者、サラフ・ウリド・フナナ退役大佐は、ヌアクショットでの政府軍との戦闘において死亡した。彼は、昨年、モーリタニア軍から退役させられた。彼は、現モーリタニア大統領マーウイー・ウリド・シジ・アフメド・タイアが行っているイスラエル接近政策の敵だった。反乱軍の捜索は、更に数週間続いた。例えば、6月19日、モーリタニア警察の部隊は、モーリタニア当局の考えによれば、失敗したクーデターの組織者が隠れているリビア・ジャマヒリア大使館近くの通りを封鎖した。

首都の広場から反乱軍の戦車を撤去する大統領派の兵士 それにも拘らず、6月10日、米大使館の警備の強化とアメリカ外交官の予想される救出準備のために、米軍欧州司令部の本部庁舎から、34人のアメリカ軍人のグループがヌアクショットに到着した。この際、米大統領は、既に6月8日、35人のアメリカ軍人が米大使館の警備強化とリベリアの首都モンロビアへの予想される撤収の準備のたに到着したことを下院議長に通知していた。

 ちなみに、同国の現大統領自身は、1984年の軍事クーデターの結果国家元首となった。後に、彼は、2度つつがなく再選された。実際、5年前に行われた最後の選挙は、野党がボイコットした。最近、親西側指向とイスラエルとの密接な関係で彼を非難するイスラム原理主義者とタイア大統領の関係が複雑化した。イスラム共和国かつアラブ諸国同盟の一員であるモーリタニアは、 テルアビブとれっきとした外交関係を有している。イラクとの戦争は、侵略に反対するイスラム教徒に対する弾圧の非難を政府に強制した。

■外国特務機関のプレゼンス

 モーリタニアで最も堅固な立場を占めているのは、チュニスの特務機関である。その代表は、既に60年代から、全く合法的にヌアクショットで活動し、その現地の同僚と非常に密接な接触を維持している。モーリタニアの首都で信任されたチュニス諜報部の主任務の1つは、モロッコのエージェントの摘発及び無力化における援助の提供にある。事実上、70年代からここで活動し、モロッコに対する共同業務を狙ったアルジェリアの特務機関についても、同じことが言える。

 イラクの特務機関も、モーリタニアにおいてかなり重大な影響力を享受している。多くの場合、これは、シド-アフマド・タイア大統領とサダム・フセイン間の過去の密接な関係で説明される。80年代後半、後者は、モーリタニアの指導者に軍事及び経済支援すら提供して、この地域におけるイランへの平衡力として、アフリカに独自の橋頭堡を創設した。その代わり、ペルシャ湾での戦争時、ヌアクショットは、バグダッドを公式に支持し、イラク諜報部は、当時ここでの完全な行動の自由を享受した。しかしながら、90年代末、シド-アフマド・タイアは、米国及びイスラエルとの接近に針路を取り、バグダッド体制との良好な関係は、忘れ去られた。結果として、その多くがサダム・フセインの特務機関の正職員だった同国で働くイラク外交官の数が激減した。

 最近まで、トリポリとバグダッドの特務機関は、過去に築き上げられたその豊富な「エージェント潜在力」を有効利用しつつ、モーリタニア領内で活発に行動し続けた。現地及びアメリカ筋の情報によれば、サダム・フセインの諜報機関は、現地野党中で最も確固たる関係を有し、その指導者ムハマッド・アウラド・ダッダ(1978年に打倒された元大統領の弟)は、ニッツェに居住している。過去数年間、特にバグダッドが米国及びイスラエルとモーリタニアの関係に 反対する野党の大部分に資金提供していたことも指摘されている。

 この外、伝統的に、1958年までここの完全な支配者だったフランス人は、国内で重要な影響力を享受している。実際、最近、フランス人は、モーリタニアにおいて、イスラエルの特務機関との競争により引き起こされた予期せぬ困難に直面した。つまり、1999年夏、50人のフランスの軍事顧問が、短期間で国外に離れざるを得なかったが、数ヵ月後、彼らの代わりに、イスラエルの代表団が密かにここに到着した。一般に、モーリタニア当局とユダヤ人国家の特務機関代表の最初の接触は、90年代前半に遡る。ここで、 再三役割を果たしたのは、元外務相エイタン・ベン-ツルだった。1995年、ヌアクショットに、イスラエルの公式代表部が開設された。2000年初め、両国間の関係は、完全な外交関係の形態を獲得した。

 ちなみに、モーリタニアは、「アル-アクサ」インティファーダ開始後、イスラエルとの関係を断絶しなかったアラブ同盟3カ国の1つである。その代わり、シド-アフマド・タイアは、 非常に堅実な政治及び経済的配当を得、これは、特に、ワシントンでのイスラエルによるモーリタニアの利益のロビー活動に反映した。つまり、例えば、6月の米国訪問中、アリエル・シャロンは、ヌアクショットへのアメリカの財政援助を増加するように、ジョージ・ブッシュに要請した。

 現在、同時に、イスラエルの軍事情報部アマンと対外諜報部「モサド」は、モーリタニアとの関係をかなり有効に利用している。彼らにとって、この国は、事実上、北アフリカにおける主要基地である。列挙された全ての国の特務機関の外、モーリタニア領土では、他の国家の諜報組織も活動している。特にその中では、隣のマリ(モーリタニアは、反政府陰謀と騒擾の組織で再三非難した。)とセネガルの特務機関 が目立っている。後者の諜報部は、モーリタニア南西部において、主として破壊工作性のかなり頻繁な作戦を行っている。

活動

 1995年10月26日、イラク外務省の公式代表は、 モーリタニア当局宛に辛辣な表明を行い、「イラクの信用失墜によりアラブ諸国の団結を許そうとしていない勢力への買収と奉仕」で非難した。イラク代表の主張によれば、バグダッドには、「モーリタニアでスパイ活動に従事するいかなる根拠」もない。

 モーリタニア当局は、前日、イラク与党バース党の現地支持者数十人を逮捕し、イラク大使にペルソナ・ノン・グラータを宣告した。モーリタニア内務相モハメッド・レミン・サレム・ウリド・ダフは、国内における広範囲なスパイ網の創設で、バグダッドの特務機関を非難した。マーウイー・ウリド・シド・アフメド・タイア大統領の軍事体制は、1991年のペルシャ湾紛争時、サダム・フセインを支持した。モーリタニアでは、伝統的に親イラク感情が強いが、最近、両国間の関係は悪化していた。

 2000年1月31日、ウサマ・ビン・ラディンの国際テロ組織への関与が疑われ、先日セネガル特務機関により逮捕されたモーリタニア人、モハメッド・ウリド・スラヒが、モーリタニアに引き渡された。1月22日に欧州からダカルに到着したときに逮捕されたスラヒは、モーリタニア特務機関の捜査官の護衛の下、ヌアクショットに移送された。現在、米FBIから得られた情報に基づき、容疑者の尋問が行われている。

 アメリカのプレスは、モハメッド・ウリド・スラヒが、ビン・ラディンの組織のテロリストが昨年末に合衆国で実行を計画していた一連のテロ行為の立案者であると主張している。これらの計画は、12月14日に米北西部で60kgの爆発物を運搬していたアルジェリア人、アフメド・レッザムが逮捕された後に ぶち壊しになった。

 米国では、被拘束者がモーリタニアに引き渡された場合、彼が米国にとって到達不能となるとの懸念が表明された。アメリカ特務機関代表は、以前、セネガル当局にモーリタニア人の引渡を要求していた。モーリタニアの法律は、国民の外国国家への引渡しを禁じている。既に同年2月22日、モハメッド・ウリド・スラヒは、 「証拠の欠如」により釈放された。

 同年2月3日、ヌアクショットにおいて、国際テロリスト、ウサマ・ビン・ラディンのネットワークに関与していると思われる4人が逮捕されたという情報が現れた。「モーリタニア特務機関に近い筋」によれば、この逮捕は、アメリカのプレスにより昨年12月に米国での一連のテロ行為を企図したと挙げられた某モーリタニア人モハメッド・ウリド・スラヒの「自白と直接関係」した。「ワシントン・ポスト」と「ニューヨーク・タイムス」は、ウリド・スラヒが ビン・ラディンの婿で、側近であるとも伝えた。後に、この情報は、モーリタニア当局により否定された。

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最終更新日:2052/09/07

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