モロッコ空軍

 モロッコ空軍は、1956年11月、フランスの直接援助と参加の下に創設された。初期段階における空軍の基盤は、フランス空軍の編成から譲渡された「アルコン」×6機、「グロン」×1機、ベル47ヘリ×1機、ビーチ「トビン・ボナンザ」×2機及びMN.1521M「ブロウサード」×3機が構成した。アラブの援助なしでは済まなかった。つまり、イラクは、最初の戦闘機となったホーカー「フューリー」戦闘機×4機を譲渡した。

 間もなく、新しい納入国も見つかった。1961年2月10日、100人から成るソビエト軍事使節団(主として、以前に納入されたMiG-17F戦闘機×12機とMiG-15UTI×2機のための飛行士と整備員)が乗船した ディーゼル船「カラガンダ」がラバトに到着した。ソビエトの影響力の増大にも拘らず、旧宗主国との関係は断絶しなかった。空軍の需要のために、有名な「シュトゥーカ」のフランス版である「クリゲト」数機、「ブロッサード」×3機、T-6「テキサン」×12機、アルエット-2ヘリ×7機及びジェット練習機SM.170「マジステル」×8機が調達された。

 1963年、隣国アルジェリアとの緊張した対峙は、国境紛争にエスカレートした。ソ連は、この小紛争において、アルジェリア側に立ち、ソビエト・モロッコ関係の発展に急激に影響した。間もなく、これは、無に帰した。このことは、兵員がもはやミグに習熟できなくなったため、空軍の即応性を損ない、戦闘行動には、大急ぎで武装された訓練用「テキサン」のみが参加した。事後、MiG-17は、1966年に戦闘編成から外され、保存に移され、1983年になって初めて装備から除籍された。空軍のその後の発展段階は、アメリカ製航空機の受領と関連した。1966年中盤、この北アフリカの国は、アメリカの軍事援助の提供国リストに含められ、これと同時に、C-119×2機、C-47×4機、ヒラーUN-12E×2機及びベル47×4機が空軍に引き渡された。後に、アメリカのF-5A「フリーダム・ファイター」戦闘機のモロッコ納入に関して合意に達し、要員の再教育が始まった。計F-5A×16機、RF-5A×2機及び複座型F-5B×4機が納入された。新型機の導入と共に、新しい飛行隊も編成され、首都防空を主任務とするケニトラ(ラバト北方40km)の航空基地に駐機し始めた。

 フランスからは、同期間、С-119×4機、数機のС-47、T-6、並びに「攻撃型」T-28「タロン」も納入された。その外、フランスを通して、「旧ドイツ」のSM.170「マジステル」×24機を受領することができ、追加2個飛行隊が充足された。この時までに 、事実上、全ての飛行業務の専門家が、フランスで訓練及び実習を受けていたことも指摘すべきである。空軍の主要活動も、フランスを指向した。つまり、納入されたC-119は、サハラの交通困難な地区への貨物輸送に使用されただけではなく、新鮮な果物のパリへの輸送にも使用された。空軍の近代化は、F-5Aのパイロットが失敗したモロッコ国王暗殺に参加した後に中断された。1974年8月16日、ボーイング727で帰国していた国王は、モロッコの近くで、飛行隊長自身が操縦桿を握る1機のF-5により攻撃された。飛行隊長がボーイングが撃墜され、国王が死亡したと伝えた後、更に3機の戦闘機が基地に帰還した。その後、全く理解し難い出来事が続き、その結果、ボーイングは、無事に着陸し、失敗したパイロットは、燃料切れのためにカタパルト脱出せざるを得なかった。

 その外、1機のF-5がラバト・サルの飛行場施設を、更に4機が王宮を攻撃した。実際、打撃の結果については何も伝えられておらず、反乱が鎮圧されたことだけが知られており、国王は、同軍種の根本的再編を行い、その後、若干の者が「首を切られた」。

 翌年になって初めて、「キング・エア」-100×6機、AB.205×12機、「プーマ」×40機、AB.212×5機及びAB.206×8機を含む新型機の納入が始まった。その外、武装型T-34C-I「ターボ・メンター」×12機と教育型「ブラヴォー」×10機が発注された。

 70年代末〜80年代初め、ポリサリオ戦線のゲリラ部隊との戦闘行動への航空隊の絶え間ない参加が目立った。これら兵士達は、西サハラ独立のために闘っており、隣国のアルジェリア、それを通して全「社会主義世界」により支援されていた。長大な距離のため、航空隊は、反乱軍の捜索から国境哨所への補給に至るまで、文字通り、全機能を遂行した。ポリサリオ兵が高射機関銃から近代的な携帯式対空ミサイルまでのかなり十分な防空手段を有していたため、損害もかなり大きかった。つまり、F-5A×5機、SM.170×2機が撃墜された。喪失したヘリの機数は、どう見ても、数十機と計算される。ポリサリオ兵は、北モーリタニア上空で、戦闘飛行から帰還するF-5がミサイルで撃墜された1976年1月21日に最初の成功を収めた。パイロットは死亡した。

 その後、モロッコ空軍は、25機の納入契約が1975年に署名されたより近代的な「ミラージュ」F.1を保有した。しかしながら、これらも重大な損害を負い、1980年になって初めて、公式筋は同機4機の損失を認めた。しかしながら、1991年、ソ連崩壊と関連して、ポリサリオへの援助は事実上停止され、両者は、より従順になり、交渉のテーブルに就いた。間もなく、戦闘行動も停止された。

 1991年、米国にF-16A/B×20機、フランスに「ミラージュ」2000×35機が発注され、各々F-5と「ミラージュ」F.1と交替するはずだった。「ミラージュ」の納入がより裕福なアラブの隣国、特にアラブ首長国連邦により支払われたことは興味深い。輸送機は、スペイン製SN-235M×7機により充足された。

 この後、空軍装備への近代機導入に関するいかなる情報もないが、どう見ても、根本的な近代化は行われていないようである。

 

 

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最終更新日:2004/02/29

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