パキスタンの政策のアフガン・ベクトルと中央アジア

アレクサンドル・クニャゼフ

 恒常的に戦うアフガニスタンは、巨大な地域にとって重要な交通路の地位を占めつつ、その周囲のほぼ全ての国の十分な発展に対する重大な障害である。それにも拘らず、ソビエト・アフガン戦争がかつて誰にとって発展の刺激になったかと言えば、パキスタンにとってである。「アフガニスタンへのソビエトの干渉は、パキスタンの地政学的役割を急激に変えた。孤立し、インド側から常時の軍事脅威を受け、その核プログラム開発のためワシントンの圧力に曝されていたパキスタンの独裁者ジヤ・ウリ-ハクは、当時、一連の目的を達した。ソビエトの干渉は、「パシュトゥニスタン」創設に関するアフガン側の要求に終止符を打ち、イスラマバードは、国際社会の共感を利用し、著しく大量の米国の援助を受けるため、ソ連と自国の関係を利用しつつ、当時の状況も利用して、主敵であるインドからの軍事領域における遅れを除去するために利用した。

 1995年11月から、米国務省附属諮問部会の評価によれば、パキスタン諜報部がアジアの縦軸に対する支配の確立に関するキャンペーンを開始した期間の基点が始まる。当時、パンジャブ州、ラホールにおいて、外務相サルダル・アシフ・アフマド・アリは、講義を行い、パキスタンの対外政策方針の優先方面は、今後、中央アジア諸国との全面的関係の発展であると表明した。既にこれまで、前年度に、中央アジア地域、特にタジク(ウズベキスタンにとって)及びアフガン(パキスタンにとって)の安全に対するパキスタンとウズベキスタンの共同責任の概念が立案されていた。中央アジア及び中国の西側門戸への全ての重要輸送路を支配下に置く希求という当時新しかったパキスタンの戦略の編成について話し合われた。当時、事実上、パキスタンは、新疆からカスピ海まで、並びにアフガニスタン及びパキスタンからロシアの沿ヴォルガ及び前ウラルまでの地域の全ての国の発展に顕著に作用する機会を有するはずだった。この地域が事実上、ズビグネフ・ブジェジンスキーの有名な「不安定の三日月」の頂点であることを思い出していただきたい。

 予定された戦略の観点から、タリバンは、パキスタンがインドのカシミールで既に行動しているのと同じように、アフガンのバダフシャン地区において行動するはずだった。パキスタンでは、カラチと中央アジアを結ぶ新しい鉄道の設計のために、技術集団が既に編成されていた。アメリカの専門家の評価によれば、回収率と将来性のために、当該鉄道は、カシミールも通るはずだった。そして、そのため、論理的にタリバンによるカブール奪取の最初の結果となるはずだったのは、過去全てを越える規模のカシミールへの突進だった。このようにして、タリバンのアフガン・タジク国境への移動が、中央アジアにおけるパキスタンの政策の最初の方面になるはずだったとすれば、カシミールは、自動的に二義的方面となった(カシミールについて言えば、1996年春、パキスタンが沿カスピ海地域において関係を確立し、国家元首の相互訪問時、カシミール問題におけるアゼルバイジャン大統領ゲイダル・アリエフの支持を取り付けると同時に、カラバフ紛争の犠牲者に数百万ドルの援助、並びに当時カラバフ紛争地域への派遣のためにOSCEの庇護の下で編成が予定されていた平和維持軍の編成下への自国兵士の提供を約束したことについて言及すべきである。これは、まだ仮定的で、遠くではあるが、第3のパキスタンの攻勢方面と考えられる。)。訪問及び「相互支援」の約束の同期間、米国は、3億7千万ドルの武器をパキスタンに納入すると表明した。正式には、東のインド、西のイランからの防衛のために、米国の主要地域戦略的同盟国に武器が必要だとされたが、パキスタンの上記の政策傾向を考慮すれば、その別の方面での使用の発生も予想できる。

 アフガニスタンとパキスタンの二国間関係の歴史自体は、前世紀の英国の植民地政策から地域に遺産として残された一連の問題のため、常に複雑であり、それについて、手短に想起させたい。1838〜1842年及び1878〜1879年、英軍は、アフガニスタンの征服及びそのインドでの英国の勢力圏への併合の2回の試みを実行したが、失敗に終わった。それにも拘らず、軍事的失敗は獲得できなかったが、19世紀後半、英国は、それでもやはり、カブールの国王の対外政策を自国の支配下に置くことができた。この過程における重要な境界線となったのは、アフガニスタンに対するパキスタンの政策の第1の要素の有効基点である1893年だった。これは、自国領土の保全の要素である。アフガニスタンでの戦争自体は、パキスタンには不必要である。逆に、イスラマバードに限りなく忠実で、それに依存し、「大パシュトゥニスタン」創設構想を適時に無力化できる政府の隣国での権力掌握を保証する安定性が必要である。この構想は、国境両側のパシュトゥン民族の多くの指導者の脳裏に浮かんでいる。その本質は、パキスタン北西部の国境州のいわゆる「自由民地帯」その他のパシュトゥン人が居住する若干の西部州のアフガニスタンへの併合である。1857年、アメリカの「New American Cyclopaedia」を目的とした「アフガニスタン」の記事において、F.エンゲルスは、今のパキスタンのペシャワールをアフガニスタンの「主要都市」の中に挙げている。アフガン・パキスタンの国境線は、非常に暫定的なものとして残り続けている。英国人が最終的にアフガニスタン独立に妥協し、同国から退去せざるを得なかった1893年、駐デリー英国政府外国問題書記だった英国のドゥランド将軍は、アフガニスタンとインドにおける英国占領地間の暫定国境の制定に関して、アフガン中央権力をある程度代表し、カブールに在位していたアフガン国王アブド・ウル・ラフマンと協定を締結した。インドの分裂とパキスタン建国後、この問題は、自動的に後者に移った。協定に従えば、100年の期限で、アフガンのパシュトゥン人が居住する領土の一部が、英国占領地(現パキスタン)に貸与された。パシュトゥン人統一の永遠の脅威は、イスラマバード公式筋及びソビエト・アフガン戦争期間の政策のベクトルを著しく支配した。「パキスタンによるアフガン・ムジャヒディンの支援は、自国の安全の利益にも応えなければならない。それ故、イスラマバードは、統合されていない抵抗運動、主として、イスラム教徒とパシュトゥン人の若干の集団を支援することに決めた。この政策は、小さなイスラム連帯責任、大きな恐怖により支配された。無統制のパシュトゥン人民族主義は、難民中におけるその影響力により、パキスタンのパシュトゥン民族の反乱を引き起こし得た。

 パキスタン建国(1947年)後に流れた期間に渡り、パシュトゥン人の資産階級とパンジャブ人(数に関して同国最大の民族)の資産階級は、今国家を統治しているパンジャブ・パシュトゥン共通のエリートに一体化した。パシュトゥン民族は、パキスタン最大の多くの国家活動家(例えば、M.アイユブ・ハーン及びグラム・イスハク-ハーン大統領)及びパキスタン・ビジネスの大資本家である。90年代初め、将校団の20%、警察幹部の16%及び文民国家機構高級官僚の10%以上は、パシュトゥン人だった。勿論、上記のことは、パシュトゥン人、パンジャブ人を問わず、各種氏族及び地域集団間の緊迫した闘争と競争(しかしながら、この闘争は、敵対性を帯びていない。)を排除しない。つまり、北西部の国境州のパシュトゥン人政治指導者は、統一パシュトゥン人州(「パシュトゥンフバ・スバ」)へのパシュトゥン人の全居住地の統合に賛成している。更に、最大のパシュトゥン人政党である「人民国家党」(「アバミ・ネイシェネル・パルタ」)指導部に入っているその若干の者は、その計画する「パシュトゥンフバ・スバ」にアフガニスタン南部に存在するパシュトゥン人の全居住地も含める自分の希求を隠していない。

 時折、パキスタンでは、統一パシュトゥン人州の創設構想が活発化するが、全てのパシュトゥン人政治指導者の一致した支持を受けていない。パシュトゥン民族地帯及びパシュトゥン人が居住するベルジスタン州北東管区の統一パシュトゥン人州の行政境界への編入は、これらの地区のパシュトゥン人政治活動家が反対した。パシュトゥン民族地帯の政治指導者は、統一パシュトゥン人州の創設の場合、政府の補助金(これについては、上で語った。)、並びにその他の特典を失うことを恐れている。ベルジスタン出身のパシュトゥン人活動家について言えば、彼らの予想によれば、ペシャワール(北西部の国境州の行政中心地)出身のパシュトゥン人指導者が統治するであろう「パシュトゥンフバ・スバ」の枠内での統合ではなく、独立した州への北東のベルジスタンの分離の獲得を彼らは優先しており、これは、二義的な計画とされている。

 反タリバン連合では、「ドゥランド・ライン」問題と、ナジブラ大統領の死の一説が結び付けられている。周知の通り、ムジャヒディンによるカブール奪取時から、ナジブラは、国連使節団の建物に隠れ、ラバニ大統領を信じる部隊がタリバンの圧力の下で首都を離れる日に至るまで滞在していた。説に従えば、カブールに入ったタリバンの前衛には、特別任務を帯びたパキスタン特殊部隊が存在した。国際法の標準と国連の地位にも拘らず、パキスタンのコマンドは、国連使節団から元大統領を引きずり出した。当然のことながら、後日、アフガニスタンが昔からの自国領土に対する要求を否定するはずである文書への署名を彼に強制するために、ナジブラは、一晩中、残酷に拷問された。同説に従えば、ナジブラは、拷問にも拘らず、拒否で応え、時期を選んで、パキスタン人の1人の武器を奪い、射殺を試みて殺された。その後、早朝、彼は、広場で一般に曝された。事実がどうであれ、この経緯は、アフガンの近代政治生活の現実を考慮すれば、全く信頼できるように思われる。領土問題の現実性、元アフガニスタン大統領ナジブラの死の悲劇的経緯に注意を向ければ、まあ、信じることができる。

 次の要素は、経済である。パキスタンをアフガニスタンと分かつハイベル峠を巡る戦争のため、パキスタンの交通路は、既に20年間、ソ連崩壊と共に予期せずして有望となった中央アジア及び全CISにおける市場から切り離されている。イスラマバードには、アフガニスタンでの戦争の更なる長期化が、中国及びイラン側からのこの市場の植民地化を不可逆にし、パキスタンの商品及び資本のための場所がなくなるとの確固たる懸念が存在している。1998年末のデータによれば、1994〜98年に渡る中央アジア共和国及びカザフスタンとの貿易におけるパキスタンの純利益は、2億ドルに達する。同期間、パキスタンは、これらの国に2億1,800万ドルの商品を納入し、1,800万ドルを輸入した。パキスタン商品の輸入国の中でリードしているのは、ウズベキスタンであり、同国は、1億2千万ドルに相当する。パキスタンの輸出に対して最も容量のある市場は、キルギスである。中央アジア諸国は、約50品目の食料及び化粧品、医薬品、皮革製品を含む消費財をパキスタンから購入している。一方、パキスタン企業は、原綿、鉄鋼、非鉄金属を地域諸国から持ち出している。ここでは、カザフスタン及びウズベキスタンがリードしている。しかしながら、パキスタンの国際貿易機構の代表の意見によれば、より十分な商品交換を妨げているのは、安定した交通路、特に最も安価な地上路の欠如である。その欠如は、新しい市場のライバル、主として、イランと中国に白紙委任状を与えている。

 イスラマバードのアフガン政策の純粋に政治的な要素も存在する。パキスタンの戦略的な主敵は、インドである。自国の軌道上へのアフガニスタンの誘引は、パキスタンが反インド・イスラム地帯を強力に強化することを可能にしたはずである。ついでに、これは、パキスタンが総じて悪くない関係を維持している中国への関係に関しても、イスラムの立場を強化したはずだが、イスラマバードの戦略的同盟国が、事態のそのような転回に勿論反対する訳がなかった。特にパキスタンのキャンプに、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン出身のウイグル人ジハード戦闘員の訓練がなくなっているのは偶然ではない。

 上で検討した事実に立脚して、パキスタンと最も直接に関係し、今最も流布しているアフガンの「タリバン」運動誕生説を論理的に検討しようと思う。それは、こうである。ソビエト・アフガン戦争時、ISIの機構に、アフガン領土、主として南部、パシュトゥン人居住地区において、両親を失った子供を集める特殊部署が創設された。彼らは、パキスタン近郊のキャンプに移され、軍事問題及びイスラムの主要教義を教育された。これは、イェニチェリ軍団の類似物であり、「タリバン」の基盤となった。後に、この目論見の構想者は、アフガニスタンにおける民族対立を上手く利用した。重要だったのは、ムジャヒディンの到着後、パシュトゥン人がカブールにおける権力にアクセスを許されなかったことへのパシュトゥン民族のボス達の不満だった。ラバニとヘクマティヤルの連合が結成された1996年5月5日以降、状況は、簡単に変わった。パシュトゥン人のグリベディン・ヘクマティヤルを首相にして、自政権に多民族的外見を与えようとするラバに政府の試みは、成功をもたらさなかった。同族中におけるヘクマティヤルの権威は、余り大きくなかった。

 米国、英国及びサウジアラビア側からの大規模な軍事及び財政支援が、「タリバン」の成功を保障する最も重要な要素であるとのベナジル・ブット自身の認識も存在する。この成功の保障における自国の役割について、元パキスタン首相は、控え目に沈黙した。イスラマバード公式筋は、ベナジル・ブット政府退陣後、アフガニスタンの調停に関する国連及びイスラム会議機構、その他の組織及び個々の国の努力を完全に支持している。1998年春のアルマ・アタでのブルハヌディン・ラバニ大統領との会見時、パキスタン首相ナバズ・シャリフは、タリバンを援助した前パキスタン政府の政策を支持していないと表明した。これに関するアフガニスタン・イスラム国大統領ブルハヌディン・ラバニの意見が特徴的である。「パキスタン首相ナバズ・シャリフは、「タリバン」とは、かつて旧パキスタン政府により創設された集団で、当時の政府の下で、タリバンは行動を開始し、それから支援を受けていたが、現状において、彼らが無統制となったことに同意している。アシュハバード、アルマ・アタ等でのナバズ・シャリフとの全ての会談において、私は、既に別の関係を構築すべきだということ、タリバンへのパキスタン政府の関係を変える必要があることについて、彼に常に想起させ、この問題を解決すべきだと伝えている・・・」。

 1998年9月、元パキスタン内務相ナシルラ・ババルは、1994年にこのポストにいた時、アフガンのタリバンの戦闘部隊の編成及びその軍事訓練に個人的に従事したことを認めた。「我々は、イスラムのシャリアートの旗の下で、イラン、パキスタン及びアフガニスタンの三国同盟が、イスラエルのシオニズムの不吉な計画を破壊することを期待していた」。元首相の言葉によれば、事実上、「タリバン」運動は、アフガニスタンに「当時強化されていたソビエトの影響の脅威」が現れた1973年、故ズリフィカル・アリ・ブット首相の下で生まれた。まだ青年将校だったナシルラ・ババル自身は、メドレセの生徒を戦闘部隊に徴募し、特殊キャンプにおいて、彼らに軍事問題を教育した。彼は、インドが「敢えてパキスタンを攻撃する」場合、50万人のアフガンのタリバンがその防衛に立ち上がり、それが分裂するような報復打撃を加える」との確信を表明した。

 ナバズ・シャリフ首相及びその内閣の意図の誠意は、1998年7月に2度同国を訪問したアフガニスタンに関するパキスタン・イラン共同使節団の創設及び業務が全くなかったとすれば、恐らく、信じることができただろう。イランの研究家、アリ・アクバル・ダレイニの意見によれば、数年間、タリバンは、パシュトゥン人多数派の利益においてアフガン内戦を終結させられる軍事・政治勢力を彼らから創設するという1つの目的を持って、パキスタンのキャンプで教育された。しかしながら、最近、イランの専門家の意見によれば、タリバン運動は、一人立ちして、パキスタン政府の監督下から離れた。この過程における急変要素は、イスラマバードでの政府交代だったと予想することができる。「タリバン」プログラムは、ベナジル・ブットの下で創設された。ナバズ・シャリフの新しい立場は、タリバンに自立することを強制した。「従順で、敬虔なタリバンの若者は、自分の教師の恐喝を試み、彼らから軍事援助提供の継続を獲得する自立し、野心的で、狂信的な大人に変わった」と、アリ・アクバル・ダレイニは考えている。彼の言葉によれば、パキスタン政府ではなく、パキスタン諜報部が、アフガニスタンの内政干渉を継続しつつ、「タリバン」運動への武器及び軍事機材の補給に関する秘密作戦を行っている。ダレイニの意見によれば、「恐らく、戦争に疲れ、それに損なわれた沈痛なアフガン住民のために平和をもたらすことは誰もできず、パキスタン政府が1992年に採択された「タリバン」プログラムをアフガニスタンにおいて独自に実現している自分の諜報部を切り詰める戦力及び手段を見出さない限り、それは継続するだろう」。

 アフガニスタン領土における軍事行動の継続は、パキスタンの内政状況を紛糾化させ、長期化する危機からの脱出をより確実に模索することを同国統治層に強制している。パキスタンの政治学者が公然と認めているように、「タリバン運動の出現(パキスタン、米国及びサウジアラビアの協力の下)は、80年代、90年代初めにアフガン方面において我々が行った政策の失敗の結果であった」。タリバンが樹立した体制の早急な外交的承認について言えば、パキスタンの手を縛り、国際連合の援助によるアフガン問題の平和的解決を困難にした無思慮な一歩だった。タリバンの承認は、「日々、アフガニスタン北部における独立国家の出現の可能性を増大させることをもたらした」と、パキスタンのアナリストは認めている。その結果、パキスタンでは、同国により行われるアフガニスタンに対する政策の再検討の訴えがますます確実に響いている。パキスタン自体では、アフガン問題の軍事的解決方法を拒否し、アフガンの平和的調停方法を基盤に置く提案が叫ばれている。若干のパキスタンの政治学者は、特に、このためにその実現の結果が破壊されたアフガニスタン経済の復興となる独自の「アフガニスタンに対するマーシャル・プラン」を立案することを提案している。この目的の達成には、国際金融・経済組織、「友好国の政府、並びにパキスタン政府」により提供される資金から設立される特別基金の緊急創設が支援するはずである。パキスタンの専門家は、パキスタンの銀行が今、アフガニスタンの全ての大都市に支店を開設することが必要だと考えている。独自に又はアフガン企業、並びにアフガン人ビジネスマンと協力して、アフガニスタンで活動するパキスタン企業にそれらが協力するために。パキスタン政府について言えば、パキスタンの組織及び企業によりアフガニスタンに提供されるパキスタン商品の購入及びサービスの支払のために、アフガン政府にルピー借款を提供する必要がある。パキスタン国家銀行は、熟練した専門家をそこに派遣して、アフガン中央銀行を援助する必要がある。パキスタンの援助で、国の長期的経済発展プログラムの融資に従事する特殊なアフガン復興銀行を創設することも必要である。パキスタンは、社会インフラの復旧及び発展におけるアフガニスタンへの援助提供に関する緊急措置を採択し、そこに熟練した技師、医師及び医療要員、並びに教師を派遣すべきである。アフガン人自身の社会分野における専門家の緊急訓練の可能性を検討する必要がある。戦時に破壊された道路、橋梁、ダム、灌漑水路、発電所その他の人民経済施設の復旧プログラムも、立案及び遂行する必要がある。農業が「アフガニスタンの人民経済の脊髄」である以上、灌漑システムの復旧が特に必要であると、パキスタンの経済学者は強調している。アフガニスタンは、莫大な鉱物資源その他の自然資源の埋蔵量を有していると、パキスタンの専門家は指摘する。パキスタンの経済学者の意見によれば、この資源は、国の経済の復興のために至急に利用されるべきである(上記のことは、何よりも、マザリ・シャリフ地区の天然ガス、ギンドゥクシャの北斜面及びバグラン州の石炭、カブール西方の高品質な鉄鉱石及び銅鉱石の埋蔵に関係している。)。提案の中には、空輸分野におけるパキスタンとアフガニスタン間の密接な協力の確立、アフガニスタン国内の市中心地間の定期航空連絡の組織への協力、並びにアフガニスタンからパキスタン(パキスタンのペシャワール、ラホール、イスラマバード及びカラチ空港を利用して)を経由した定期国際航空便の組織が存在する。同著者は、アフガニスタンとパキスタンを相互自由貿易圏に変えることが必要であると考えている。戦力によるアフガン調停方法とタリバン体制の一方的支持の否定は、パキスタンの政治学者の予想によれば、アフガニスタンにおけるパキスタンの政治、経済及び倫理・思想的影響力を強化するだろう。

 それと共に、アフガニスタンの状況の経済的及び社会的調停方法の優先使用は、パキスタンの国際的立場、その国際舞台での権威の強化に役立つだろう。そして、パキスタンの専門家が非常に重要なこととされているのは、イラン及び中央アジアの独立共和国(何よりも、ウズベキスタン及びタジキスタン)とパキスタンの関係における緊張の増大を押し留めることである。パキスタンの専門家の指摘によれば、その提案する経済及び社会プログラムの実施は、「アフガニスタン経済の復興に役立つだけではなく、パキスタンに今居住している2百万人以上のアフガン人が家庭に帰れるための現実的可能性を創出するだろう。これは、アフガニスタンにも、パキスタンにも有益なはずである」。

 しかしながら、パキスタン指導部が状況を完全にコントロールできない位、アフガンの事態にはまり込んだという印象が生まれている。つまり、マスコミの報道では、アフガンの事件と関連して、定期的にパキスタンの省庁間情報局、ISIを取り上げている。1999年7月13日、デリーにおいて、アフガニスタン連合イスラム戦線の表明が発表され、同年春、インドのジャムー及びカシミール州、並びにアフガニスタン北部への1万人の戦闘員及び軍人の侵入を組織したパキスタン省庁間情報局(ISI)に対して制裁を直ちに導入することを米大統領ビル・クリントンに訴えた。「ジャミアト-エ・イスラミー-エ・アフガニストン」党(アフガニスタン・イスラム協会)その他一連の反タリバン連合の党派の共同表明では、アフガン領土において、北部同盟が支配する地区に対する新たな決定的攻撃を準備している数千人のパキスタン軍人及び親パキスタン集団の戦闘員の集結が継続されていると強調された。「そのような行動は、パキスタン人のインド侵入と同様、ISIが組織及び実施する干渉以外の何物でもない」と、文書では語られている。

 この表明にコメントしつつ、駐インド・アフガニスタン大使館代表は、パキスタンがカシミールとアフガニスタンにおいて、調整された戦闘行動を実施していると伝えた。ISIが国際テロリスト、オサマ・ビン・ラディンに従属するものを含むムスリム過激派及びテロ集団の戦闘員との共同によるパキスタン軍事部隊の主権国家への武装侵入を規定する同一戦術に訴えていると、外交官は表明した。恐らく、同盟指導者の当表明には、有名な国際テロリスト、オサマ・ビン・ラディンの隠匿及び支援で彼が非難したアフガニスタンの「タリバン」イスラム運動に対する「財政その他の商業制裁」の導入について発表した同年7月6日付の米大統領の表明が吹き込まれた。実際、アメリカ大統領のこの決定を革命的と呼ぶのは難しい。前年の1998年度の貿易高の数値は、印象的なものとは呼べない。米国は、700万ドルの商品をアフガニスタンに輸出し、1,700万ドルを輸入した。つまり、タリバンに与えられた損害は、経済的というよりも、政治的性格を帯びていた。年間約4千万ドルに達し、実際、その一部をパキスタンのアフガン難民が受け取っている米国の人道援助に、制裁が関係していない以上なおさらである。

 省庁間情報局(Inter-Service-Intelligence、以下「ISI」という。)は、1948年、英国陸軍将校、後にパキスタン陸軍参謀次長となったR.Cawthome将軍により創設された。ISIの活動範囲は、50年代のパキスタン大統領、アイユーブ・ハーン将軍の参加の下で拡大され、当時、ISIの主目的としては、国内外におけるパキスタンの利益の擁護、敵対派の政治活動家に対する監督及び国内での軍事統治の維持が挙げられた。これらの任務の遂行のため、国内外での業務を考慮して、ISIは、3軍事機構の活動を調整しつつ、次の方面に集中している。全ての外国人、マスコミ、パキスタン社会の政治活動家層、パキスタンで信任された他国の外交官、そして、国外で働くパキスタン外交官に対する監督は、外部警備、秘密攻撃行動における調整及び協力になりつつある。徐々に、ISIは、大統領又は首相は言うまでもなく、軍指導部に対してすら、責任の一部を自ら解除し、国家中の国家となった。業務の無統制の結果、汚職、麻薬の全てが起こり、大金は、この機構をますます複雑にし、強化した。全てがゲーム(ギャップ)に入り、政治シナリオを更に複雑にした。麻薬生産からの金は、アフガニスタンでの戦争だけではなく、パンジャブ及びカシミールでのインドに対する戦争にも出資するために、ISIが利用している。アメリカの独立の研究家のデータによれば、ISIは、数百人の文民職員と多数の軍人を有し、総員数は、情報提供者及び有償エージェントを考慮せずに、1万人近くと予想される。局は、複雑な機構を有している。つまり、JIX部署は、活動を調整し、他の機構部署への行政支援を保障しつつ、官房として活動している。ここには、分析及び予測機関が含まれる。「統合研究局」の名称の機構部署は、国内の政治状況に対する監督を担当し、70〜80年代における組織の最も強力な構成要素の1つだった。最近、その活動は、防諜としてインドに対して向けられている。JCIB部署は、国外でのパキスタン外交官の「野外」行動、並びに近東、アジア南部、中国、アフガニスタン及び旧ソビエト連邦のムスリム共和国における諜報業務の実施を担当している。「北方統合研究所」(JIN)の名称の部署は、戦闘グループのの浸透、政治宣伝その他の秘密行動を含めて、ジャムー及びカシミールでの行動に対して責任を負う。ISIは、爆発物及び戦闘化学剤の開発、生産及び認定、無線位置標定偵察に従事する独自の部署を有する。

 ISIは、パキスタンの軍事統治時代、大統領及び主任行政官の直接統制下にありつつ、内政分野に常に深く関与していた。ジヤ・ウリ・ハク将軍の敗北とベナジル・ブットの選挙での勝利後、ISI長官グリャム・ジラニ将軍は、自分のポストを維持し、体制交代にも拘らず、その後も退役しなかった。実施される政策の人気度と質を独自に決定しつつ、1977年、ISI職員は、敵対派と積極的に協力し、その結果、軍人の政権復帰を保障した。

 1990年に次期選挙でのベナジル・ブットの壊滅的敗北を保障した後、ISIは、ハミド・グリャムの指導下で最も効果的となった。

 ソビエトのアフガニスタン侵入は、パキスタンを地理戦略的に重要な国に変えた。米国は、パキスタンを「沿前線国家」と表明し、ソビエトの侵略のため、積極的に開発中のパキスタンの核プログラムすら無視して、援助と軍事納入を再開した。

 ISIのシステムでは、1983〜1997年の期間、ほぼ83,000人のアフガン・ムジャヒディンが教育され、その後、アフガニスタンに派遣された。ISIは、ラバニ政府に対する闘争において「タリバン」を支援しつつ、アフガン内戦に積極的に参加し続けている。ISIは、カシミールのイスラム・テロ集団(ジャムー・カシミール解放戦線(JKLF)、ジャムー・カシミール解放学生戦線(JKSLF)、Hezb-ul-Mujahedin、Harakat-ul Ansar、「Al-Umar」、「Al-Barq」、「Lashkar-e Toiba」等)の支援にも常に従事している。

 アフガニスタン自体においては、アフガン国内状況におけるパキスタンの役割について、2つの意見は存在しない。90年代後半、アフガニスタンにおける戦争の性格は、恐らく、アフガン国内紛争におけるパキスタン及び米国の役割及び地位に関するアフガン指導者の意見が事実上一致しているため、最終的に明らかになりつつある。ここで、例えば、1997年3月22日、バーミヤン市において、シーア派指導者アブドゥル・カリム・ハリリがこの問題にコメントしたところによれば、「内部の能力を考慮すれば、アフガンの1つの軍事・政治集団も、装備率、軍事装備及び補給力の観点から、自分自身では強くはなり得ないことが完全に明らかである。彼らが装備し、軍事能力を保有する規模の全ては、彼らの背後に非常に影響力のある大国が立っていることを全く明白に証明している。その外、アフガニスタンの各地域で起こった激烈な武装対決時に渡り、多くの外国人が捕虜となり、多くが戦闘行動中に殺された。例えば、シェイフ・アリ付近での最近の戦闘だけで、我々により、45人の外国軍人が殺された。このことは、タリバンの背後に立っている国が、装具及び武器を援助しているだけではなく、人員も援助していることを証明している」。内戦へのパキスタンの直接参加自体に関する意見は、パキスタンでは、アフガン体制中でのこの戦争(当然のことながら、政府側では紛争)の性格に関する見解において、事実上、既に通説となった。

 「タリバン」運動側でのアフガニスタンにおける戦闘行動へのパキスタン軍人の直接参加の文書証拠となり得るのは、アフガン政府側により提出されたプレス・リリース(多数の中の1つ)である。

シャモリ峡谷での攻撃の際に殺されたパキスタン陸軍及びパキスタン省庁間情報局(ISI)将校数名のリスト

No. 名前 父称 階級及び所属 死亡日 パキスタンの住所
1 ザファリ・ウリ-ハク ISI大尉 27.07.97 パンジャブ州、マンジ・バハウトジン
2 サナウラ ISI中佐 27.07.97 スビト
3 ケファイアトゥラ ISI准将 27.07.97 ラキ・マルバト
4 ハリム・ハーン ISI大佐 27.07.97 ムルタン、バスチ・マリク
5 サリム・ハーン ISI大佐 27.07.97 ホハト
6 ムザファル(グリザルとして知られる) 陸軍大尉 「新道」で発見、不詳 アボタバード
7 ハリム 陸軍少佐 戦場 シンド州、サンガル
8 アクバル・アリ チュドル・アシュラフ 陸軍少佐 戦場、「新道」 ムルタン、シュジャハバード
9 アリ・ハイダル 大佐 戦場、「新道」 スビト、ブアニリ
10 アザズラ 陸軍少佐 27.07.97 ペシャワール、ノフチェフラ
11 サイヤド 陸軍大佐 27.07.97 ハザル大隊

 注1:ISI将校5人は、アフガニスタン・イスラム国軍が発射したロケットにより、同じ場所で殺された。

 注2:更に6人が、戦場の各所で殺された。

 オサマ・ビン・ラディンの名前と関連して、時折再発するタリバンに対するアメリカの脅威は、同盟とは呼び難い反応をパキスタンに引き起こしている。現在、アフガニスタン領土に位置するオサマ・ビン・ラディンの基地に対するアメリカのミサイル打撃実施の脅威はないと、1999年7月、国会(議会)において、パキスタン外務相モハマッド・シディキ・カンジュは表明した。「パキスタンは、アフガニスタンへの脅威の創出及び同国に対する軍事行動のために、自国領土をいかなる国家にも使用させない」と外務相は表明した。「我々は、ビン・ラディンの引渡をアフガンの「タリバン」運動から獲得する米国の努力にいかなる協力も行わない」。カンジュは、アフガニスタンのラディンの戦闘員の配置地区に対して巡航ミサイル「トマホーク」により打撃を加える準備をしている米国の数隻の軍艦が、ベルジスタン州グバダル港に派遣されたとの情報と関連して、一連の原理主義政党議員の質問に答えつつ、この表明を行った。

 同期間のパキスタンの出版物の報道からも、アフガニスタンと隣接するベルジスタン、並びに北西部の国境州に、その捕獲を目的としたビン・ラディンの基地への投入を実行する任務を帯びたアメリカのコマンド・グループが存在していることが出てきた。パキスタン情報筋によれば、アフガニスタンにおける米特殊部隊の作戦は、アメリカの中央司令部本部で立案され、その遂行は、この連合部隊の司令官アントニー・ジニー将軍が監督した。ワシントンを訪問していたパキスタン首相ナバズ・シャリフは、カシミールでのインドに対する武装侵略と関連したイスラマバードの非難をホワイトハウスからかわすのと交換で、アフガニスタンでのアメリカの作戦への自政権の協力の保証を与えざるを得なかった後、ラディンの捕獲に関する行動には、同月、米大統領ビル・クリントンにより、「ゴー・サイン」が下された。

 10月12日、パキスタンで、軍事クーデターが起こった。

 パキスタンでの軍事クーデターの原因の1つと一般に認められているのは、タリバンへの関係に関する政策を引き締め、アフガニスタン領土に隠れているイスラム・テロリストの引渡を要求する交代したナバズ・シャリフ首相の決定である。これについて、ナバズ・シャリフは、イスラマバードへの飛行前日、一連の湾岸諸国元首に伝えたと、サウジの「シャルク・アル-アウサト」紙がアラブ外交筋を引用して伝えた。同紙の確認によれば、クーデターの数時間前、シャリフは、ムシャラフの代わりに陸軍司令官に任命された元軍事情報部長、ジヤ・ウド-ジヌ将軍にアフガニスタンに向かうよう指示を下した。ジヤ・ウド-ジンは、国際手配されている「原理主義者」の引渡をタリバンに厳しく要求するはずだった。ペレベス・ムシャラフ将軍の権力掌握後、ジヤ・ウド-ジン将軍は、営倉にぶち込まれた。

 米下院附属テロリズム・非在来型戦闘行動作業部会指導者ヨセフ・ボダンスキの情報によれば、英国に基地を置く国際イスラム組織「アル・ムハジルン」の指導者オマル・バクリ師は、軍統合参謀会議議長ペレベス・ムシャラフ将軍を長とするパキスタン軍人の行動を真のムスリム体制の創設への一歩として評価する表明を即座に行った。彼は、その枠内において、手始めに、「アフガニスタンとパキスタンのムスリムの地」を統合できるはずである「カリフ制」の創設のために、精神的権力の手に権力を渡すことを軍人に訴えた。

 一方、「タリバン」運動政権は、「パキスタンでの変革は、パキスタンの軍及び政府の自由及び尊厳を侵害する一定の外国勢力の行動に対する回答となり、彼ら(変革)は、強力かつ独立した政府を創設することができる」という表明を発表した。

 タルカン方面におけるタリバンの攻勢の活発化は、8月半ば頃に頂点に達した。そのような攻勢の試みの1つの時、著者は、事件に関して、アフマド・シャー・マスードにインタビューすることができた。「我々は、今年行われたタリバン指導部とパキスタン代表の再三の会議において、アフガニスタン問題を最終的に、しかも、武力によってのみ解決する決定が採択されたとの信頼できる情報を有している。言い換えれば、その支配から自由な国土の残り部分を奪取することである。それ故、ムシャラフ将軍その他一連のパキスタンの将軍は、今回の行動を事前に準備していた。特にこれらの決定と関連して、沿国境州の軍司令官セイード・ムザファル将軍は、これらの作戦の指導を個人的に実施する具体的な任務を受領した。しかしながら、タリバンの成功は大きくなかったため、キルギス及びウズベキスタン情勢を不安定化しつつ、その影響領域を拡大しようともしている」。

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最終更新日:2052/09/06

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