スーダンの情報機関

■情報共同体の機構

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アル・アムン・アル-ダヒリ(Al Amn al-Dakhili):国内保安

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アル・アムン・アル-ハリジ(Al Amn al-Khariji):諜報
 

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国防相:Bakri Hassan Saleh将軍

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内務相:Abdel Rahim Mohammed Hussein

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法務相/検事総長:Ali Mohammed Osman Yassin

 スーダンは、民族及び宗教・文化関係において、アラブ・イスラム世界からアフリカのネグロイド民族への移行地帯を形成している。ここでは、50年代中盤から、ほぼ絶え間なく、この2つの文明間の軍事対決が行われている。前者は、同国北部を占めるスンニー派アラブ人(住民の48%)により代表される。米国、バチカン及び英国側から非公式の援助を受けている 南部の異教徒及びキリスト教徒が彼らに対峙している。

 90年代初めから、ここでは、イランの影響力が不可避的に増大している。ハルツームは、ますます強くテヘランへの経済的依存に陥り、このことは、後者がここでのそのプレゼンスを常に拡大することを可能としている。90年代前半から、スーダンには、数千人のイスラム革命防衛隊将兵と約150〜200人のイラン情報・保安省職員が常駐している。彼らの庇護の下、国内では、「ヒズボラ」の訓練キャンプと軍事基地が機能している。ちなみに、特にスーダンは、パレスチナ人に武器を輸送し、2002年1月 にイスラエル人により拿捕された船舶「カリン-A」の最後の停泊地だった。

 90年代初め、民族イスラム戦線(1989年に権力を奪取したアル-バシル将軍の主要内政同盟者)の協力の下、スーダンには、ハマスの活動分子も定着した。ハルツームには、その指導者マフムド・アル-アズハルの弟、ファデルが指揮する同組織の公式代表部が開設された。

■イスラエルの足跡

 50年代中盤、イスラエル諜報部に、ハルツームの政治エリート代表との関係を軌道に乗せる機会が現れた。当時、同国におけるイギリス・エジプトの統治期間が、終わりに近づいていた。スーダンでは、激しい権力闘争が展開されていた。その主要参加者の1つは、強大なスーフィー教のアル-アンサル及びアル-ハトミーア教団だった。後者は、エジプトの支援に頼り、スーダンの独立獲得後、エジプトは、ここで独自の影響力を保持しようとした。一方、アル-アンサル教団は、既にトルコ・エジプトの統治時から、北の隣国に極めて敵対的だった。アル-ハトミーアのカイロ関係への平衡力としての外部支援の模索において、アル-アンサル代表は、英国人の協力の下、エジプトの主敵であるユダヤ人国家に援助を要請した。初期段階において、彼らとの関係は、元「モサド」長官ルズヴェン・シロアフ(間もなく、駐ワシントン領事に任命された。)とシリア出身のイスラエル外交官エリヤフ・サソンが維持した。

 1956年のスーダン独立後、「アル-ウンマ」党を設立したアル-アンサル教団の長達は、国内の主要政治勢力の1つとなった。同年夏、その指導者アブダッラ・ハリルは、連合内閣を編成し、第2代スーダン首相となった。その前任者の汎アラブ志向とエジプトとの密接な関係を拒否して、彼は、1957年8月、パリを訪問し、ゴルダ・メイアと会見した。その結果、医療、農業及び貿易領域における協力に関する協定が署名された。両者また、ハルツームの保安及び諜報機関創設におけるイスラエルの援助提供についても合意した。しかしながら、1958年11月、スーダンで軍事クーデターが起こり、その後、イスラエルとの公式関係は中断した。これにも拘らず、「モサド」は、今や地下に潜らざるを得なくなったアル-アンサル教団の若干の代表及び「アル-ウンマ」党の活動家との関係を維持し続けた。同時に、イスラエル諜報部は、南部の敵対派との密接な関係を復活した。1964年から、有望なスーダン・アフリカ民族同盟との関係に、特別の注意が払われた。南スーダン集団との接触の維持は、同年の隣のケニア領内における「モサド」の非公然支局の出現により容易になった。1964年秋、ここから、イスラエル諜報部は、昔の同盟者、軍事体制反対運動を指揮するアル-アンサル教団の指導者に支援を提供した。このおかげで、1年後、「アル・ウンマ」党のムハマッド・アフマド・マフジュブは、新政府内閣を編成した。

 60年代末〜70年代初め、イスラエル諜報部は、この地域において、中国国家安全部と密接な協力を確立した。これは、何よりも、キューバ及びソ連特務機関に代表される共通の敵の存在に基づいた。特に「モサド」と中国諜報部の共同行動の結果、1971年夏、モスクワは、スーダンでの立場を喪失した。当時、左翼将校は、ジャファル・アル-ヌメイリ大統領を打倒しようと試みた。しかしながら、3日後、クーデターは鎮圧され、後に、スーダン指導者は、中国国家安全部から、ソビエト諜報部のその準備への関与に関する全面的証拠(「モサド」により偽造)を入手した。

 1971年にイスラエル人により提供された援助を覚えているヌメイリは、キャンプデービッド協定を支持した事実上唯一のアラブ指導者だった。他の地域諸国と異なり、ハルツームは、当時、カイロとの関係を断絶しなかった。同じ理由により、スーダンの指導者は、1981年初め、イスラエル諜報部「テヴェリ」の「国際課」を代表したエフライム・ハ-レビ(後に、彼は、「モサド」全体を指揮し、今日、国家安全保障会議を指導している。) との秘密会談に同意した。このようにして、エチオピアのユダヤ人のスーダン領土を経由したイスラエルへの出国に関して合意に達した。事後、この出来事は、約15,000人がエチオピアを離れた「ソロモン作戦」(「ミフツァ・シュロモ」)の名の下で広く知られた。

 「モサド」とハルツーム間の関係は、90年代、アル-バシル将軍と民族イスラム戦線の権力掌握後ですら継続した。 これに関するいかなる情報も、両国により綿密に隠蔽されている。1度だけ、サウジアラビアの特務機関は、イスラエル-スーダン間の秘密接触に関する情報の漏洩を組織することができた。これは、ロンドンの出版物「アシュ-シャルク・アル-アウサト」がユダヤ人国家とハルツーム代表間の交渉について伝えた1996年5月に起こった。後に、アメリカ行政府筋は、イスラエル-スーダン間の対話が実際に行われたことを確認した。会談は、アラブの首都3ヶ所で行われ、スーダンによるユダヤ人国家の公式承認と2国間外交関係の樹立に関する問題に関係した。このようにして、イスラエルの助けで、ハルツームは、アメリカとの関係改善を期待したが、その否定的反応を恐れて、シモン・ペレスは、アル-バシル体制との接近に踏み切らなかった。

■米国との関係

 1996年、スーダンは、ビン・ラディンの逮捕に関するサービスと、彼が服役すべきサウジアラビア当局への引渡を提案した。1996年2月、当時の国防相エルファチフ・エルヴァ少将がワシントンに到着した。しかしながら、クリントン行政府は、サウジ人がビン・ラディンを「受け入れる」ことを信じられず、米国の裁判でしかるべき事件に着手せず、このようにして、テロリズムの頭脳中枢の1つを「閉鎖」するチャンスを逃した。当時、スーダンは、ビン・ラディンが1996年5月にアフガニスタンに移動するのを許した。

 8月、スーダンは、アメリカ当局が自国内の2ヶ所のテロリストのキャンプを写真撮影するのを許した。8月、クリントン大統領に、共同テロ対策を提案する特別書簡が送られた。これに回答はなかった。10月、スーダン諜報部のボス、このポストに任命されたばかりの西側の大学の卒業生、グトビ・アル-マフディ(Gutbi Al-Mahdi)は、ビン・ラディンに関するファイルからいくつかの文書をアメリカ人ジャーナリストに示した。しかしながら、1997年4月、スーダン政府は、スーダン諜報部の文書への無条件アクセスをCIA及びFBIの対テロ部署に提供して、スーダンに対する制裁不導入を獲得しようと試みた。それにも拘らず、制裁は、1997年11月、ビル・クリントンによりスーダンに科された。当該措置の原因となったのは、長年に渡る人権侵害の事実、並びに1995年のエジプト大統領ホスニ・ムバラクの暗殺未遂への数人のスーダン公務員の関与に関する表明だった。1998年2月、グトビ中将は、再びFBIに直接書簡を送った。回答として、同年夏、米国は、ビン・ラディン捜索のために、スーダン領土の施設を爆撃した。1999年5月、米国は、ハルツームの製薬工場(1998年8月、アメリカのミサイル爆撃により破壊 )の所有者S.イドリスの国内の外貨預金を凍結することに決め、スーダンは、その場で、彼に対して導入された制裁を取り消し、爆撃で被った全ての損害を賠償するように米国に訴えた。制裁は、2001年になって初めて解除された。

 2002年3月、スーダンにおいて、 世界の最も危険なテロリスト22人のリストの最初の人物が逮捕され、アフガニスタンでの対テロ作戦開始時から拘束又は殺害された「アル-カイダ」の最高位の組織構成員であるアブ・アナス・アル-リビが拘束され、拘禁された。アブ・アナス・アル-リビ(リビア国籍)は、2001年10月10日、FBIにより、世界で最も危険なテロリスト22人のリストに編入された。彼は、1998年の駐ケニア及びタンザニア・アメリカ大使館の爆破、並びにエジプト大統領ホスニ・ムバラク暗殺未遂への関与が疑われている。スーダンでのアル-リビ逮捕の事情は伝えられていない。英国のプレスは、彼が約1ヶ月前に捕らえられ、今ハルツームの刑務所の1つに収容されていると主張しているが、スーダン当局は、イスラム教徒逮捕の事実自体すら否定している。

■イラクとのパートナーシップ

 1998年2月、アメリカの「U.S.ニュース・アンド・ワールド・レポート」誌は、米下院附属テロリズム特別作業部会の報告書を掲載した。米国、ドイツ及びイスラエルの特務機関の情報に基づいた報告書では、「イラクに対するいかなる爆撃戦役も、同国の占領すらも、イラク副首相タリク・アジズが 既に1991年に化学兵器を装填した弾頭と共に、400発のイラク製ミサイル「スカッド」の「保管」のための配置の許可をスーダン大統領から得たという理由により、大量破壊兵器の開発及び生産に関するサダム・フセインのプログラムの核心を葬ることはできない」と主張されている。

 1年後、イラクの核プログラムの資材も、スーダンに秘密裡に発送された。44kgの高濃縮ウラン-235も含む構成要素の一部は、家具輸送の自動車で、ヨルダンを経由してスーダンに搬出された。12kgの高濃縮ウランを含む一部は、バグダッドからハルツームに戻る1人のスーダン外交官手荷物に偽装して運搬された。

 1995年、スーダン南西部において、イペリット生産工場が共同で建設された。前年、イラクとスーダンは、ハルツーム北部の青ナイル河岸に、生物学兵器と共に弾頭及び戦術ミサイルを生産するはずだった近代的な工場を建設しようと欲した。スーダンの首都南方、マイウ村において、産業複合体内部に、ドイツ製工作機械とフランス製コンピュータの助けで、新しい化学兵器生産工場が建設された。イラク特務機関は、ドイツ製資材をドイツからブルガリアを経由してスーダンに輸送した。

 1996年5月、秘密機関は、フセインが行っている「隠れんぼ」の意味を解明した。これは、スーダンの大都市オムドゥルマンの住民が、そこに滞留した奇妙な有毒の雲により被災した後に起こった。間もなく、 特務機関は、スーダン南西部で、有毒ガス、イペリットの秘密生産工場を発見した。有毒の雲は、砂漠でもイペリットの試験後に発生した。

 同報告書では、1995年、イラクの専門家がリビアの砂漠で原子爆弾を開発し始めたが、アメリカはムアマル・カダフィの爆撃を敢えて行わなかったと語られていた。

■フランスとの関係

 カルロス・「シャカール」は、1994年、特にスーダンにおいて、フランス特務機関により拘束された。

■ロシアとの関係

 2001年9月、スーダンから、国連安全保障理事会の制裁が解除され(1996年から2001年まで有効だった。)、2002年1月、スーダン共和国エネルギー・鉱山省は、「スラヴネフチ」社とハルツーム州の地質調査に関する契約に署名した。取引は、2億ドルと評価されている。契約条件によれば、「スラヴネフチ」の子会社の1つの専門家は、所有する地質調査データを研究する。専門家の結論が大規模な石油埋蔵の推定を確認すれば、8月、同社は、試掘、後に採掘に着手する。

 特にこの石油会社が、何故スーダン政府により選ばれたかは、以下のことだけが推定できる。1983年から、スーダンでは内戦が行われ、ハルツームは、常に武器を必要としている。昨年末、ロシアが約1億2千万ドルで12機のMiG-29を納入する契約をスーダンと締結したという情報が現れた。その外、西側のプレスは、T-72戦車の生産工場の建設開始について書いた。

 昨年4月、スーダン国防相バクリ・ハサン・サレフ少将がモスクワを訪問し、ロシア国防相セルゲイ・イワノフと会見した。交渉後、イワノフは、「我々は、軍事技術協力に関するロシア・スーダン政府間協定の準備を始める」と表明した。協力の性格は、スーダン国防相の事後の訪問日程から理解された。彼は、空挺軍第106ツーラ師団第51連隊を訪問し、国防省諸兵科共通アカデミーに立ち寄り、並びに「ミグ」社と連邦国営単一企業「ロスオボロンエクスポルト」に滞在した。

 ロシアには、石油会社がかなりあるが、何故、特にロシア・ベラルーシ企業である「スラヴネフチ」が選定されたのだろうか?最近ベラルーシにより締結された1万挺のAKMのスーダン納入契約が役割を果たした公算が大きい。

■制裁時の武器のルート

 90年代中盤、ドイツ人ジャーナリストが、 毎年数万人のスーダン人が餓死に脅かされているにも拘らず、ハルツーム体制が数十万tの食料を輸出し(同じことは、エチオピアの統治者にも関係する。)、このようにして得た外貨で武器を購入していると暴露した。1992年、スーダンは、33万5千tの国際食糧援助を受け取り、 同国は、家畜用の飼料として、スーダンの主食である9万8千tのキビを特恵価格で欧州連合諸国に輸出すると同時に、数千tの肉をイラクに売却した。その結果、一方で、欧州は、ECの公共予算でスーダンに穀物を供給し、他方では、ECの補助金により、スーダンから穀物を搬入することによって、ハルツーム体制が武器を購入するのを助けた。

■ビン・ラディンのアフリカにおける影響力。その役割

 1991年末、その支配下のイスラム過激派の創設及び支援によるアフリカにおける影響力拡大のためのテヘランとハルツームの協力が始まった。イランとスーダンの特務機関は、当時、ソマリア、タンザニア、ケニア、チャド、並びにウガンダ、ブルンジ及びザイールに特別の注意を向けた。当初の段階において、主要な援助は、主としてシーア派原理主義者の多数の現地集団に提供され、スーダンの訓練基地での要員訓練、並びに財政領域に現れた。後に、イラン・スーダンの影響力は、列挙されたアフリカ諸国のスンニー派イスラム指導者にも拡散した。1992年、テヘランとハルツームは、その統治体制の立場を破壊し、代わりにムスリム原理主義者を権力の座に就けるために、これらの国家の政治情勢の不安定化に関する計画の実現に着手した。同年2〜3月、イスラム教徒が現地統治者の勢力を著しく破壊した一連の大衆蜂起を組織したウガンダ及びケニアにおいて、同盟者により特別な成功が収められた。ハルツームとテヘランは、その行動を効果的に調整し、この際、共通の目的を追求した。つまり、例えば、ケニアにおいて、スーダン特務機関職員は、 スンニー派宗教機構の業務を監督すると同時に、イランの同僚は、オロモ族代表が優勢な同国の経済エリートを「工作」し、これを通して、シーア派原理主義者に財政援助が提供された。

 同期間、スーダン諜報部のアフリカ方面での業務には、オサマ・ビン-ラディンと彼の戦友が関与した。彼らは、主としてハルツームと協力し、イラン特務機関とはほとんど接触しなかった。それと共に、ビン-ラディンは、一連の東アフリカ諸国の経済に対する影響力拡大のために、スーダン諜報機関との協力を利用した。その結果、彼は、当地域に大商業会社のネットワークを創設し、並びに いくつかの銀行機構及び産業企業の共有者になることができた。当期間のアフリカにおけるビン-ラディンの主な代理人の1人は、レバノン出身のイスラム活動家ムハマッド・アル-シャリフだった。彼は、「アル-カイダ」の現地インフラの創設及び発展に、非常に重要な貢献を果たした。 その後、西側特務機関の努力にも拘らず、 これは、ビン-ラディンの多くの追随者が今日完全な非合法条件下で活動し、彼に属する多くの会社が既に以前から名称又は公式所有者を代えたにも拘らず、事実上変化なしに保持された。

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最終更新日:2052/09/07

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