シリアの情報機関
 

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政治保安庁(イダラート・アル-アムン・アル-シヤシ)

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総合保安庁(イダラート・アル-アムン・アル-アンム)

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軍事情報部(シュバト・アル-ムハバラート・アル-アスカリッヤ)

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航空偵察部(イダラート・アル-ムハバラート・アル-ジャウィッヤ)

■教師

アロイス・ブリュンナー(1943年の写真)  「教師」模索のこの伝統は、既に半世紀以上に渡る。その上、この役割において最初のものとなったのは、SS出身の専門家だった。シリア特務機関の父は、フランスの裁判所により3度死刑を言い渡されたアロイス・ブリュンナーだったと考えられている。アイヒマンの信任者だったこのSS隊員は、1954年、偽名で暮らしていた西ドイツから逃亡して、ダマスカスに現れた。1961年、フランス防諜機関は、シリア滞在が完全に突き止められたナチス犯罪者リストに彼を公式に含めた。「モサド」は、数回、爆発物をブリュンアーのポストに送った。その1つの爆発の際、彼は、目を失い、別の爆発の際、数本の指が吹き飛ばされた。しかしながら、この間、シリア政府は、ブリュンナーの自国滞在の事実を認めることを拒否した。ある情報によれば、1991年10月に至るまで、彼は、シリアの首都で暮らし、その後、好奇の目から離れたラタキア市に移った。彼は、1996年にそこで死んだものと考えられている。

 シリア特務機関にとって2番目の教師となったのは、エジプトである。1958年2月1日、両国は、アラブ連合共和国(UAR)の名の下に統合された(当該形態において、シリアは、1961年まで存在した。)。シリア特務機関は、エジプトの同僚の監督下に入った。UAR建国まで、シリアの特務機関は、第2局(陸軍の構成下)、総合保安局(内務省)、及び総合情報局を含んだ。統合の結果、第2局は、エジプト軍事情報部の監督下に移り、総合保安局は、エジプト秘密機関の部署に改編され、総合情報庁は、最もデリケートな作戦を実施する「特殊局」に改称された。例えば、この機構は、第2局からパレスチナの「フェダイーン」(アラブ語で「決死隊」)部隊を引き継いだ。これらは、情報収集、並びにイスラエル領内でのサボタージュ行為又はテロ行為の実施に従事した。

 エジプト人と事実上同時に、ソビエトの軍事顧問がシリアに現れたのは当然のことである。60〜70年代 におけるソビエト特務機関の影響力については、西側筋によれば、1978年に特にシリア領内でクルディスタン労働党がKGBにより創設された事実が物語っている。

 今日、シリアにおけるロシア特務機関の立場がどの程度強いのか判断するのは難しいが、モスクワの軍事的プレゼンスには、特別の意義が与えられる。今まで、駐シリア軍事顧問職には、ロシア連邦国防省の古参には程遠い人物が任命されている。現主任軍事顧問ワシーリー・ヤクシェフ中将は、任命まで極東軍管区参謀長として勤務し、彼の前任者アナトーリー・ボグダノフ大将は、参謀次長であった。

 しかしながら、シリアは、今日、ロシアの支援に関心はないだろう。若き大統領は、今日、残る2大国、米国と中国の援助を 模索しており、テロリストのスポンサーの土壌ですらこれを妨げていない。9月のテロ行為直後、CIAは、シリアの諜報部と接触を確立した。10月、アメリカ諜報部の高官がダマスカスに到着した。その結果、2002年初め、ペルシャ湾の米軍事施設に対するテロ行為が防止され、シリア人は、9月11日の準備に関与したムハマッド・ハイダル・ザマルの拘束も助けた。その外、年末までに、バシャル・アサドは、(12月5日、中国外交部副部長ヤン・ビンチャンがダマスカスを訪問し、江沢民からの招待状をシリア大統領に手渡した。)上海に現れるはずだった。

■国内保安

 1970年から2000年まで国を統治したハフィズ・アサドは、警察と保安機関を強力にした。現在、同国の政治警察は、国内保安庁である。しかしながら、この機構だけが防諜に従事しているわけではない。1987年までに、他の特務機関にも国内保安局が存在した以上、国内保安機構が互いに重複する機能を有する多数の組織から成ったという情報が存在する。この際、各組織は、大統領とその最側近に直属した。これらの組織は、互いに完全に独立して活動し、その権限の明確に規定された境界線を全く有していなかった。

 2000年初め、国内保安庁長官には、大統領の姉の夫、アシュ-シャウカト将軍が就任した。今日、彼は、恐らく、シリアで最も影響力のある戦力要員だと考えられている。

■諜報

 シリアには、4つ存在する。これら全ては、大統領の直接監督下にあり、体制がそのどれにも依存しないように、互いに重複した機能を有している。この際、 各機関内において、各局長は、名目だけの長官ではなく、しばしば、大統領に直属する。

 政治保安庁は、既存の体制の利益に反する組織的政治活動の徴候及び痕跡の摘発に従事している。その機能には、反体制派、並びに国内に滞在する外国人の活動及びその現地住民との接触に対する監視及び監督が含まれている。政治保安庁は、出版物及び音楽・ビデオ製品に対する監督も実施している。現在、政治保安庁は、アドナン・バドル・ハッサン少将が指揮している。彼は、1987年から同職を占めている。

 総合保安庁は、シリアの主要文民諜報機関である。庁は、更に3局に分かれる。国内保安局は、国民に対する監督に従事している (その義務は、国内保安庁の機能と重複する。)。現総合保安庁国内保安局長バフジャト・スレイマンは、バシャル・アサドの政治顧問であり、1999年に同ポストに任命された。総合保安庁の他の2局は、対外保安(CIAと類似)の実施に従事している。これは、シリア及びレバノンにおけるパレスチナ人グループの活動に対して監督を実施するパレスチナ問題局と、対外保安局である。総合保安庁長官は、イスラム教シーア派のアリ・ハウリ少将である。

 軍事情報部は、公式には、普通の軍事作戦層を担当している。しかしながら、この機関は、パレスチナ人、レバノン人及びトルコ過激派への軍事及び物的・技術援助の提供にも従事している。西側マスコミの情報によれば、これは、国外の反体制派に対する監督を実施し、しばしば、テロ行為も組織している。現軍事情報部長ハッサン・ハリリ将軍は、2000年2月に同職に任命された。

 航空偵察部は、その名称にも拘らず、その直接の義務にだけ従事しているわけではない。ハフィズ・アサドは、かつて、シリア空軍司令官の1人だった。権力掌握後、彼は、この諜報機関に注意を集中させた。その結果、約30年間、この機関は、大統領の信頼できる顧問、ムハマッド・アル-ハウリ少将が指揮し、そのオフィスは、アサドの大統領宮殿に隣接していた。国内において、航空偵察部は、しばしば、イスラム敵対分子に対する特殊作戦を監督した。例えば、1970年代、1980年代初めに蜂起した原理主義者、「ムスリム同胞団」の鎮圧において主要な役割を演じた。1999年12月、航空偵察部は、イスラム自由党ヒズバル-タフリル党員の全国一斉検挙を行った。

 特に航空偵察庁は、シリアによる国際テロの支援を監督していると考えられている。西側マスコミの情報によれば、シリア大使館及びシリア国営航空社の支社における同機関の国外エージェントは、数十件のテロ行為を調整した(最も有名な事例は、1986年4月のロンドンのヒースロー空港におけるイスラエルのエアバス爆破未遂)。

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最終更新日:2004/03/15

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