チュニジアの情報機関

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内務・地域発展省:内務相ヘジ・ムヘニ

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国家保安局(アムン・アド-ダウラ)

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憲兵(Gendarmerie)

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国防省附属特殊機関

■一般情報

 チュニスは、1956年に独立を得た。この際、国内では王制が維持された。権力を掌握した新体制の指導者は、封建領主及びチュニスの少数のブルジョアジー とそれを分かち合わざるを得なかった。新政権の当初の措置は、国家制度の創設、外国人要員の自国民による段階的交替に向けられた。1956年3月25日、国会選挙が行われた。ブルギバは、最初の政府を組閣した。外交機関、軍が創設され、民法典が採択され、行政及び司法改革が行われた。1957年7月25日、王制が廃止され、共和国が宣言された。大統領には、ブルギバが選出された。

 旧チュニス王室の財産没収に関する布告、植民地支配者協力者に対する「緊急法」(1957)の実施の結果、対敵協力者に対する審理(1958)後、チュニスの200以上の大貴族及び資本家に属する所有権が国家の手に移管された。1958〜61年、民間及び外国(主として、フランス )民間資本に属する採鉱、エネルギー企業、若干の加工産業企業が国有化された。対外貿易、主要銀行取引、鉄道及び国際自動車輸送等が国家監督下に移管された。大ブルジョアジーの立場が破壊された。1961年、政府は、「経済の段階的非植民地化 、後進性の克服、生産増加及び住民の生活水準の向上」に向けられた新しい経済政策を宣言した。

 社会・経済改革の実施は、独占及び国内の反応への反抗に出くわした。フランス政府は、1957年及び1964年、チュニスへの借款提供を中断した。1958年及び1961年、チュニスは、 フランス側から軍事的圧力を受けた(1958年2月8日のサキエト・シジ・ユセフ村落に対するフランス機の野蛮な空襲、1961年7月19〜22日のビゼルト侵攻)。1962年末、反動反政府陰謀が摘発された。1964年12月、ムサケン地区の 大オリーブ林の所有者は、協同組合運動の展開に向けられた政府の措置に反対した。

 1969年9月、チュニスでの内政闘争の激化の結果、経済改革を実施したベン・サラフ大臣と彼の支持者は、政府から追放され、後に、長期拘留された。1970年11月、新しい政府の長に、ヘジ・ヌイラが任命された。1987年まで、ブルギバが国を統治し続けた。

 1987年11月7日、彼は打倒された。同日、朝6時半、国営ラジオは、レバノンの人気のある女性歌手フェイルズのコンサートを突然中断し、拡声器からは、ブルギバ打倒と自分自身のチュニスの統治者任命に関して 布告したチュニス首相ジン・アル-アビディン・ベン・アリの声がした。公式説によれば、ベン・アリのこの行為により、原理主義者により準備され、11月8日朝に予定された反乱の脅威が 挫折された。この権力交替は、無血で、前指導部への報復なしに済んだ。1999年、イタリアの「レプブリカ」紙が、チュニス大統領ベン・アリはイタリア特務機関の支援の下で権力を掌握したと報道したのは興味深い。

 ベン・アリは、今日も、大統領である。彼は、全面的大赦の布告により、405人の非拘束者が釈放されたことを含めて、若干の民主改革を開始した。当局に敵対的な政治及び労働組合運動家の弾圧が停止された。この後、チュニスの人権擁護同盟は、今後、国内に政治犯が存在しないことを認めた。警察当局の立件にけりをつけた刑法領域における改革が行われた。1988年11月4日、国連の規定に従い、拘留秩序を規定する法律が採択され、チュニスは、人権に係わる全ての国際乗客及び協定に加盟した。

 2002年5月27日、同国において、大統領の3期制限を取り消す憲法改正と、大統領の定年の70歳から75歳への延長に関する問題が提起された国民投票が行われた。このようにして、既に15年間権力の座にある65歳の大統領は、更に2004年と2009年の2回、大統領に立候補することができる。

■テロ対策

チュニスはしばしば近東諸国指導者の会見に選ばれている。チュニス市のカダフィ(2003年8月31日) 2002年、チュニス指導部は、国際テロ対策の文脈において、国際及び地域組織におけるその活動を活発化させた。チュニス大統領Z.A.ベン・アリは、同国の国内状況の不安定化を可能にするイスラム運動のチュニスでの復活のための条件の排除に関する課題を 第一計画に立てている。チュニス指導部の評価によれば、狂信は、同国の安定と安全の主要な潜在的脅威である。チュニスは、国際テロ対策協力領域における12の包括的協定の内、11に加盟した。

 協力の枠内において、チュニス指導部は、国内外のイスラム敵対派に対する濃密な監督の実施、宗教に基づく何らかの政治組織のあらゆる発生現象の阻止、過激派、武器、爆発物、偽造紙幣及び麻薬の国内浸透の防止、犯罪者及び危険な犯罪の実行容疑者の拘束及び引渡に向けられた自国内の課題も遂行している。

 2001年末〜2002年初め、イスラム集成主義対策領域における隣国及び欧州諸国との二国間協力の強化計画の実現過程において、特務機関代表の接触を含む一連の措置が行われた。

 欧州(ベルギー、イタリア)及びアラブ(アルジェリア)諸国の特務機関との協力により、チュニスの法保護機関は、「アル-カイダ」のための保障及び傭兵募集ネットワークの機構部門としてイタリア領土で活動していたイスラム・テロ集団「アフリ・アル-ジャマー・ワ-ス-スンナ」へのチュニジア人34人の所属を解明することができた。2001年12月、 チュニス市軍法会議は、同集団の3人のメンバー、アブデリバッセト・ダリ、ムニル・ガイト及びバシル・ベン・ザイードの事件に関する審理を開始した。最初の2人は、2001年9月 にチュニス市でイタリア特務機関の誘導により逮捕された。ベン・ザイードは、アルジェリアの法保護機関によりチュニスに引き渡された。集団関係者31人が手配されている。

 2001年11月、 チュニス市軍法会議は、テロ組織との関係及び反国家活動に対して、イタリアから引き渡されたチュニスで禁止されたイスラム組織「アン-ナフダ」の活動分子モハメド・サイダニに懲役12年を言い渡した。

 「アル-カイダ」と関連するいわゆる「チュニス・イスラム戦闘グループ」の構成員の捜索計画において、チュニスとベルギー特務機関間の接触が続けられている。法保護機関の情報によれば、同グループの2人のメンバーは、ジャーナリストに見せかけて、2001年9月、アフガン北部同盟指導者アフメド・シャー・マスードの暗殺を実行した。

 チュニスとカナダの特務機関は、観光ビザでカナダに入国したチュニジア人150人の2000年夏からの未帰国の事実に関する共同捜査を行っている。入国者全員は、大部分の観光客に典型的ではないコンピュータ領域を専門とする21〜25歳の男性だった。これらの人々には、「アル-カイダ」との関係を疑うに足る根拠が存在する。

 16人(その内、チュニジア人4人、ドイツ人観光客及びフランス11人)が死亡し、40人が重軽傷を負ったジェルバ島のグリブ・シナゴーグ側のテロ行為の事実に関するチュニス−ドイツの捜査措置が続けられている。国際過激派である「聖地解放イスラム軍」と「アル-カイダ」が、テロ行為の組織を疑われている。

■ロシアの足跡

 チュニスは、近東調停における同国の役割のため、ロシア諜報部により、常に特別の意義を付与された。例えば、後のソ連KGB第1総局副総局長、現ロシア対外情報庁諮問部会議長ワージム・キルピチェンコは、1962年、駐チュニス・ソビエト諜報部支局員だった。中央の委任により、アルジェリア民族解放戦線に援助を提供した。チュニスには、1964年までいた。

 90年代のロシア諜報部指導部の近東諸国訪問は、ほぼ毎回、パレスチナ人との交渉の場として利用されたチュニス訪問を含んだ。例えば、1994年4月22日、ロシア連邦対外情報庁長官エウゲニー・プリマコフがチュニスに到着した。同日、プリマコフは、アラファトにより歓迎された。ロシア諜報部のボスは、ハッサンII世に迎えられたモロッコからチュニスに到着した。

 1993年まで、ヤシル・アラファトが特に同国に居住していたことは秘密ではない。1970年代、PLO本部庁舎は、亡命中のヤシル・アラファトもいた北チュニスに位置した。ここで、解放機構とKGBの接触が実施された。同時に、PLOは、エジプト及びサウジアラビアを通して、CIAとの連絡を維持した。

 戦術レベルのパレスチナ人との作戦接触は、東ドイツ特務機関が維持した。これは、東ベルリンにおいて、ヤシル・アラファトとホーネッカーの会見が行われ、武器と在レバノンPLOの訓練のために50人のドイツ人顧問を提供した1981年1月17日に始まった。しかしながら、 パレスチナ人との関係において音頭を取ったのは、ソ連だった。1980年代にCIAに徴募されたソ連領事職のカバーの下でチュニスで働いていたKGB支局職員オレグ・アグラニャンツは、アラファトとモスクワの接触に関する情報をアメリカ人に伝えた。

■CIAの役割

 アメリカ特務機関は、チュニスを同じ目的で利用している。例えば、2002年2月、CIA長官ジョージ・テネットがチュニスを訪問し、そこでモロッコ国王と会談し、パレスチナ問題を含めて審議した。

活動

 2003年7月23日、内務・地域発展相ヘジ・ムヘニは、議会会議において、2003年の最初の6ヶ月間で、チュニス特務機関が、66件のチュニスから欧州諸国への海路による不法移民の試みを防止できたと表明した。この際、内務相は、被拘束者1,329人の内、チュニスに隣接するアフリカ諸国及びアジア出身者が70%を占めたと語った。

 高水準の非合法移民の原因について、内務相は、チュニスの地理的位置、並びに欧州市場でのアフリカ及びアジア諸国からの安価な労働力の需要を挙げた。チュニス内務省指導部の意見によれば、これら全ての要素は、非合法移民の維持と、犯罪集団が 外国人のチュニスから欧州への輸送に活発に従事することを促進している。チュニス特務機関は、移民自体と、この犯罪ビジネスの背後に立っている者達を常に拘留している。通常、1人又は複数人が、欧州への出国希望者の募集に従事している。数十人のグループを集め、彼らは、各人から200から500米ドルの料金を徴収し、イタリアへの運搬条件を説明する。チュニス沿岸とシチリア間の距離が140kmしかないため、同国は、最大の人気を得ている。

 2002年4月11日、チュニス、ジェルバ島のアフリカ大陸最古のシナゴーグの近くでトラックが爆発した。このテロ行為の結果、19人が死亡し、その内、14人はドイツからの観光客、1人はフランス人、4人はチュニジア人だった。トラックの運転手も、爆発の際に死亡した。テロ行為の捜査には、チュニスとドイツの特務機関代表が従事した。捜査中、複数の説が出されたが、現在に至るまで、結局、この爆破の組織者は挙げられていない。2002年6月24日、「アル-カイダ」代表は、カタールの「アル-ジャジーラ」テレビで、爆破が「アル-カイダ」の組織により実施されたと表明した。先週の日曜日、カタールの「アル-ジャジーラ」テレビに出演した同過激派の代表が、そのような表明を行った。

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最終更新日:2003/09/25

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