アブドゥル・ラシド・ドスタム

 アブドゥル・ラシド・ドスタムは、ジョーズガン州、シベルガン市周辺の村の1つの出身で、1958年頃に生まれ、ウズベク人(別の情報によれば、キプチャク人)であり、80年代、ナジブラ政府の軍務に就き、当時、将官の階級を受け、旧政府軍の第53歩兵師団長だった。その専従職員の大部分がアフガニスタン人民民主党政府(特に「パルチャム」派閥)と密接に関係した唯一活動中の軍事・政治集団、アフガニスタン民族イスラム運動、「ジュムベシュ・ミリ・イスロミ・アフゴニストン」の創設者かつ指導者である。主として、国の発展の世俗的路線に傾く各種民族集団の利益を代表しているが、圧倒的大多数は、ウズベク民族が構成する。1992年に編成された。アフガニスタン民族イスラム運動の任務としては、「イスラム教に基づく」アフガニスタンにおける連邦制国家の創設のための闘いが公表された(文書「民族イスラム運動の政治目的」第2項)。アフガニスタンからのソビエト軍の撤退後、親衛隊の外、若干の地域部隊も、ナジブラ大統領の支えだった。その中で最も目に付いたのは、ドスタム将軍を長とする第53歩兵師団だった。特に、ドスタムと彼の師団の助けにより、シャフナバズ・タナイ国防相の反乱が鎮圧された。ウズベク人は、人数に関してアフガニスタンで3番目の住民集団であり、1986年、約150万人、住民の約9%だった(90年代末までに、恐らく、200万人以上)。ウズベク人は、かつて、ウズベク人のマイマネ、アフチャ、バルフ及びクンドゥス公国が存在したチョル・ビロイエト(4州)という歴史的名称を有し、現在のファリアブ(州都:マイマネ市)、ジョーズガン(シベルガン市)、バルフ(マザリ・シャリフ)及びクンドゥス(クンドゥス)州と事実上地域的に一致するポスト・ソビエトの中央アジアと隣接する州にかなりまとまって住んでいる。タハール州の沿国境地帯(ダシュト・イ・カラ、ヤンギ・カラ、ホジャガル、チョヒ・オブ市地区等)にも、かなり多数のウズベク人がいる。アフガニスタン民族イスラム運動支持者の多数は、ウズベク人、トルクメン人等、トルコ語族の代表が構成する以上、彼の基盤は、この民族の居住領域である。ソ連崩壊後直ちにアフガン政治に巻き込まれたウズベク人は、マスードのムジャヒディンの形で現れた原理主義の脅威から自国国境を安全にすることを試み、即座にドスタム将軍に賭け、遠心的志向を促進し、彼が支配する州によるイスラムと中央アジアの世俗体制間の緩衝地帯の創設を可能にした。タジキスタンにおけるロシアの活動の成長に徐々に慣れ、タシケントは、当時孤立体制の維持における重要層であったドスタム将軍の体制維持に集中した。残り全てのアフガン集団に対するドスタムの軍事的優越は、当時、いかなる疑いも引き起こさず、ウズベキスタンへの親近性は、食料、恐らく部分的に、兵器の最小限必要な需要を保障した。

 1996年9月のタリバンによるカブール奪取後、ドスタムは、アフガニスタン領土で展開される事件の傍観者ではあり得なかった。彼は、選択の必要性に直面した。10月初日、ドスタムは、トルコ外務相タンス・チレル及びパキスタン外務相サルダル・オセフ・アリ、並びに米国務省のアフガン部門管理者ルービン・ラファイルと電話会話を行った。彼ら全員は、将軍にタリバン政府の承認を訴えた。タリバンとドスタムの同盟が生まれれば、中央アジア地域における輸送回廊の開設に関するパキスタンの対外政策の全ての問題が解決されるはずだった。それ故、ドスタムの立場は、根本的な意義を有していた。1996年10月初め、ドスタムの迷いが認められた。ドスタム将軍の最終決定に対して、確実に決定的影響を及ぼしたのは、中央アジア諸国及びロシア側から彼に与えられた義務だった。10月4日のアルマ・アタでのウズベキスタン大統領イスラム・カリモフの会見への参加は、タシケントにドスタムに対する作用の推進力がなければならにことを更に確認している。その結果、反タリバン連合の形成が可能となった。1996年10月、最高会議が組織され、その議長には、ドスタム将軍がなった。11月、ラバニ大統領は、ドスタム将軍を相並びに国防省及び外務省の官僚の任命権を有する副大統領として布告した。1996年11月初め〜12月、アフガニスタンにおいて、比較的安定が確立された。反タリバン連合の制度化は、その武装部隊の活発化をもたらした。アフマド・シャー・マスードは、パンジュシェル峡谷からカブール方面に攻撃を試みたが、マスードの部隊は、首都への北部接近経路上で停滞させられた。ドスタム軍の支援なしでは、マスードと彼を支援するヘクマティヤルの部隊が、カブールを奪取できないのは明らかである。同時に、ドスタムのウズベク人は、結局、首都突入に参加しなかった。アフマド・シャーは、自部隊をパンジュシェルに撤退せざるを得なかった。北部へのタリバンの事後の前進を停止させるために、ドスタムの部隊は、1997年1月、サラング峠を通るトンネルを爆破した。連合メンバー中の内部対立は、共通の敵に対する勝利への強い希求だった。ドスタム軍は、ソビエト軍から譲り受けた航空隊、重火器、著しい物的資源及び軍事インフラを保有していた。1993年以降、ドスタムの部隊は、戦闘に余り参加せず、その潜在力を維持した。駐マザリ・シャリフ・トルコ総領事メフマト・サムサルは、ドスタムの部隊が6万人までを数えると予想した。彼らの装備には、戦車、戦闘ヘリ、砲兵、戦闘機23機及び「スカッド」ミサイル27発が存在した。ドスタム将軍の正規軍は、マスードの部隊がタリバンを撃破し、カブールを占領することを助けられたはずだが、これは、ラバニ−マスード集団の重要性の強化、従って、事態の経過に対するドスタムの影響力の客観的弱体化を意味したはずである。アフマド・シャー・マスードが国防相であるラバニ政府のカブール支配は、編成されたドスタムが指揮する最高国防会議だけが、実際に二義的な計画に押しやったはずである。その外、カブール奪取は、後でそれを維持するよりも簡単だったはずである。特に、戦争時代、野戦指揮官の大多数が、先ず第1に、地域指導者としての承認を求めたことを考慮すれば。

 ドスタムの利益の南部境界は、サラング峠を通り、カブールを巡る戦争は、ドスタムにとっても、他のアフガン北部の政治指導者にとっても、他人の領域での闘争への参加を意味し、このことは、直接の配当をもたらさないだけではなく、その支配地域における立場の弱体化も脅かした。何れにせよ、ドスタムは、結局秋にサラングを越えなかった。1997年1月にサラングのトンネルを爆破し、ドスタムは、北部領域の戦略的防衛だけに自分の浮き立たせた。

 戦闘行動の次の活発化は、1997年早春、「タリバン」運動部隊がギンドゥクシュを迂回して、北部州に前進できるアフガニスタン西部において起こった。ギンドゥクシュ、サラング及びシバルの主な峠は、当時、ドスタム将軍及びハリリのシーア派ハザラ人により各々封鎖されていた。以前、1997年春に主要な戦闘行動が行われた西部のバトギス州は、ドスタム将軍の担当地帯に入っていた。ここでの戦闘行動の強化は、バトギスを通して、イラン国境近くに位置する戦略的に重要な都市、ヘラートへの直接経路が開かれることで説明される。一方では、ヘラートを経由して、「タリバン」運動の本部庁舎が位置するカンダハルへの道路が通っている。他方では、バトギス州は、タリバンにとって重要な意義を有していた。この州からは、ドスタム将軍が支配する地区への直接接近が可能であった。

 1996年夏頃まで、ドスタム将軍は、まだ、ウズベク人その他のトルコ系少数派の主要指導者ではなく、「チョル・ビロイエト」州では、地域権威者が統治し、その中では、ファリアブのパフラバン一族(ラスド・パフラバン、アブドゥル・マリク)、ムミン将軍(バルフ北部、ハイラトン)その他のその意義に関してドスタムに劣らない者達が抜きん出ていた。ドスタムの役割は、1997年春までに急成長した。ドスタムの運命に重大な役割を演じたのは、ファリアブの指導者アブドゥル・マリク、正確に言えば、彼の権力欲だった。アフガニスタンのウズベク人中の第一人者となるために、ドスタムと、ファリアブ州を統治し、ドスタムに忠実に奉仕したマリクの実の弟ラスル・パフラバンは、アブドゥル・マリクを妨害した。パキスタン諜報部の参加の下、マリクは、宮廷革命計画を立案し、1996年6月、不可解な事情の下で、ボディガードに射殺された自分の弟のラスルすら犠牲にした。事件において、マリクは、ドスタムを非難し、これで自分の弟達を納得させた。ラスド・パフラバンの死のほぼ1年後の1997年5月、パキスタン・マリクの共同計画の最終段階の実施が始まった。マリクは、ファリアブにおいて、防衛するファリアブ師団の助けで、ドスタムの打撃集団、その経験豊富な多くの指揮官を一挙に逮捕し、それを武装解除するよう訴えた。これは、1997年5月19日に起こった。マリクの部隊は、バトギス及びファリアブ州の西部戦線をタリバンに開放し、サラング峠を支配していたアフガニスタン民族イスラム運動の部隊も、マリクを支持した。これは、アブドゥル・ラッザク師及びタリバン政権の外務相ガウス師を長とする兵士3千人のタリバン部隊のサラングを経由したマザリ・シャリフへの移動を可能にした。5月24日、タリバンは、マザリ・シャリフを奪取した。ドスタム将軍は、トルコに亡命せざるを得なかった。

 ドスタム将軍体制の崩壊は、マリク将軍の反乱の結果、事実上、反タリバン連合の存在に疑問を呈した。反乱の結果、「タリバン」運動部隊と反タリバン連合部隊間の軍事的均衡が破られた。5月の崩壊とドスタムのトルコ移民は、反タリバン連合の枠内におけるウズベク人の立場の弱体化をもたらした。マザリ・シャリフにおけるタリバンの撃破において決定的役割を演じたのは、以前、ドスタム将軍の下で、ウズベク人共同体が独占支配していたマザリ・シャリフにおいて、自分の立場を顕著に強化したシーア派ハザラ人の部隊だった。

 1997年5月の事件は、ドスタム個人にだけ重要なのではなかった。5月25日、「タリバン」運動の承認について、パキスタンが表明し、暫く後に、サウジアラビアとアラブ首長国連邦がそれに加わった。ワシントンにおいて、国務省は、アフガニスタン大使館の建物に、「タリバン」運動か、ラバニ政府か、どちらの旗を揚げるべきかという問題を提起し、不愉快な状況に直面すらした。

 9月12日、アフガニスタンにドスタム将軍が復帰した。9月15日、マザリ・シャリフにおいて、彼の味方とアブドゥル・マリク将軍の支持者の間の衝突が認められた。これを利用して、9月17日、タリバンは、ハイラトンを再び奪取し、マザリ・シャリフの包囲を維持し続けた。9月末、タリバンは、マザリ・シャリフ飛行場を占領すると同時に、ハイラトンの支配を巡り、マザリ・シャリフへの接近経路及びバルフ北部において、タリバンとドスタムの部隊間で激戦が行われた。急転は、ハザラ人とドスタムの部隊によりマザリ・シャリフの包囲を破った1997年10月4日に起こった。

 ドスタムは、5月に失ったウズベク系アフガン人に対する支配の回復を急いだ。復帰は、ウズベク人部隊を結集させ、北部における戦力配置を再び変えた。10月、マザリ・シャリフ解放後直ちに、ハザラ人とウズベク人間、並びにウズベク人共同体内部、ドスタム将軍とマリクの支持者間の衝突が始まった。連合による同盟者の十分激烈な対峙の結果(重火器の使用を伴った。)となったのは、影響範囲の再分割だった。今、マザリ・シャリフは、シーア派の支配下にあり、ドスタムは、ハイラトンを伴うバルフ北部に戻り、自分は、シベルガンに陣取った。ドスタムが行動の最大限の自由を有しているのは、今、西部、ファリアブ−バトギス方面だけである。アブドゥル・マリクが11月に最終的に撃破され、イランに移民したことを考慮すれば、ファリアブは、ドスタムにとって事後の行動における主要拠点となりつつある。

 マザリ・シャリフに対する支配は、ドスタムにとって政治的意義を有していた。ハイラトンは、アム・ダリヤの河川港であり、支線によりウズベキスタンと連結する鉄道駅である。ハイラトンには、数百kmで唯一の、戦略的意義を有するアム・ダリヤを通る橋(「友好の橋」として知られる。)が存在する。ハイラトンは、テルメーズ(ウズベキスタン)−ハイラトン−サラング−カブールの幹線道路の重要結節であり、特にハイラトンを経由して、ウズベキスタンとドスタム将軍の全ての連絡が実施された。ドスタムは、ハイラトンで満足せざるを得なかった。

 1998年8月1日、北部において、タリバンの新たな大規模攻勢が始まった。マザリ・シャリフは、再び脅威に曝された。8月6日、マザリ・シャリフにおいて、アフマド・シャー・マスードとドスタム将軍の会見が行われ、その中で、行動の調整について合意に達した。マスードの部隊は、同日、その陥落が軍事的失敗だけではなく、重大な士気・政治的打撃をも意味するマザリ・シャリフからタリバンを誘引するため、クンドゥス及びバグランでの攻撃行動の活発化に関する努力を提案した。マスードは、総数9千人の部隊をマザリ・シャリフ近郊に送る準備をしていた。しかし、遅かった。9月初め、ドスタムは、再び国を離れた。

 ドスタム将軍のモスクワ訪問は、2000年9月初日に遡る。この訪問中、彼を親タリバン・ウズベク人敵対派に対峙させ、ドスタム将軍を「復活」させるモスクワとタシケントの共同希求が察せられた。外部からの援助を受けて、ドスタムが喪失した陣地を回復できるか否かについて議論された。しかし、現実、あるいは、少なくともアフガニスタンにおけるウズベキスタン・イスラム運動のキャンプに対する潜在的打撃を考えれば、彼は、非常に有益だと言える。1997年9月の最初の移民からのドスタムの復帰の経験は、将軍の権威が彼の基盤州であるバルフ、ジョーズガン、部分的にクンドゥス及びファリアブにおいて高いままであり、彼が現実の反タリバン集団を集めることができる(ウズベキスタン側からの援助を考慮して)ことについて証明した。10月20日、アフマド・シャー・マスードは、アイ・ホヌムの本部で現状をコメントしつつ、ドスタム将軍との会見と、ドスタムによる新たな西部戦線の開設について審議されたことを伝えた。ドスタムが既に1997年秋に行われたように、シベルガン及びマザリ・シャリフ地区に現れれば、新たな戦力見積が提示される。しかしながら、2000年秋、ドスタムの活動が誰かに抑制されているとの感触が生み出された。過去の経験は、次の結論を下すことができる。ドスタムは、ウズベキスタンという背後を有してのみ、上手く行動することができる。

 ドスタムの部隊の新たな活動は、2001年春に遡る。

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最終更新日:2004/03/15

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