アフガニスタンにおける「政党建設」

アレクサンドル・クニャゼフ

bullet概要
bulletアフガニスタン・イスラム協会:ブルハヌディン・ラバニ
bulletアフガニスタン民族イスラム運動:アブドゥル・ラシド・ドスタム
bulletアフガニスタン・イスラム統一党:アブドゥル・カリム・ハリリ
bulletシーア派諸派
bulletイスマイル派
bulletアフガニスタン・イスラム党:グリベディン・ヘクマティヤル
bullet「タリバン」運動モハンマド・オマル
bulletアフガニスタン・イスラム党:ユヌス・ハレス
bulletアフガニスタン・イスラム民族戦線:セイード・アフマド・ゲイラニ
bulletアフガニスタン救国人民戦線:セグバトゥロ・モジャダジ
bulletアフガニスタン・イスラム革命運動:ベルジスタン・モハンマド・ナビ・モハンマジ
bulletアフガニスタン・イスラム解放同盟:アブドゥル・ラスド・サイヤフ
bullet結論

概要

 1982年、ソビエト軍及びカブール親ソビエト体制への抵抗の波において、敵対党派及び集団は、後に「アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム戦線」に改名された「アフガニスタン・イスラム解放戦線」の旗の下に団結した。それに参加した党派及び指導者の数とその統一会見場所により、これは、「ペシャワールの7人」の名前を受けた。特にこの同盟は、ソビエトの侵略及びカブール体制への主要抵抗勢力となったが、正式な統一機構化と共通目的の存在は、この言葉の直接概念における統一を全く意味しなかった。果てしない分裂と再結合の移り変わりは、全アフガン社会にとって典型的な統一不可能の反映となった。封建的精神は、各アフガン人の自分の指導者への熱狂的支持、各集団の何よりも独立性と独自性への希求のような特徴をもたらした。これらの特性は、民族、宗教、社会、地域相違の要素により補足された。ムジャヒディン部隊数が著しく増加した1980年代中盤頃になって初めて、ソビエト軍及びカブール政府に対する何らかの計画された共同作戦が行われ始めた。

 以下に、アフガニスタンの主要党派よ民族集団の簡単な性格を述べる。これらの組織の再建の流動が非常に高いことを考慮する必要がある。評される党派の多くは、形式的にしか存在していないが、現実の軍事・政治生活へのその復活の可能性を排除できない。例えば、アフガニスタン民族イスラム運動がそうである。あるものは、例えば、アフガニスタン・イスラム運動のように、既に安定し、時間と共に承認された機構に属する。

アフガニスタン・イスラム協会
ジャミアト-エ・ウリ-イスロミー-エ・アフゴニストン

 党派の綱領としては、穏健派イスラム国家の建設が発表された。アフガニスタン・イスラム協会は、何よりも、タジク人住民の利益を代表している。あるデータによれば、党派には、約10万人が属しているが、後の政治的現実を考慮すれば、この数字は、非常に疑わしくすらある。

 党首は、ブルハヌディン・ラバニである。1942年、バダフシャン州イシュカシム市(別の情報によれば、ファイザバード市)に生まれ、ヤフタリ民族集団のタジク人である。カブール大学神学部を卒業し、神学教授である。政治生活には、王政転覆及びダウドの世俗統治の樹立後、1975年頃から参加している。特に当時、ラバニは、国際組織「 ムスリム同胞団」と関係したイスラム党の指導者の1人となった。ヘクマティヤルとの相違の結果、1982年、ラバニは、独自の政党(アフガニスタン・イスラム協会)を創設し、創設された「ペシャワールの7人」の参加者の1人となった。最も活発な活動期間は、ソビエト軍及びカブールの親ソビエト体制に対する戦いだった。1992年、ナジブラ体制は、打倒され、アフガニスタンは、イスラム国家として宣言され、同年末、アフマド・シャー・マスードの支援の下、ラバニは、代議員1,335から成るシュラ(会議)を創設し、大統領に選出された。1993年3月、イスラマバードにおいて、最大党派及び集団の指導者8人により、「和平協定」と「大統領と首相間の権限分立に関する協定」が署名され、それに従い、ブルハヌディン・ラバニの18ヶ月間の大統領職在任期間が規定された。このようにして、1994年12月、ラバニの大統領職在任期間は、終了した。権力に留まり続け、1995年2月、タリバンがカブールに近づき、全部隊の武装解除を要求したとき、ラバニは、「「タリバン」運動による武装政権奪取の危険の除去まで」、自分の権限継続に関して表明した。この表明は、その後のブルハヌディン・ラバニの大統領職在任の主要かつ唯一の法的根拠である。

 アフガニスタン・イスラム協会の軍事部門、「シュロイー・エ・ネゾル」を率いているのは、アフマド・シャー・マスードである。90年代中盤頃から、事実上、自治的軍事・政治勢力に躍り出た。

 アフガン社会の差異の民族・領域原則は、何らかの集団の何らかの地域に対する影響力及び支配の拡大をもたらし、その規準となっている。つまり、アフガニスタン・イスラム協会は、特にタジク住民の密集する州を支配している。アフガン社会の封建的軍事機構においては、各集団における特務機関として分類できる機関の役割が非常に高い。アフガニスタン・イスラム協会の機構には、いわゆる「国家イスラム保安局」、「リエサト-エ・アムニヤト-エ・イスロミ・アフゴニストン」(以下「国家保安局」という。)が存在する。機構的に、国家保安局は、1991年末、「シュロイー・エ・ネゾル」の諜報部隊とアフガニスタン民主共和国国家保安省の個々の要素に基づき、アフマド・シャー・マスードの直接指導の下で組織された。国家保安局局長モハンマド・ファヒムは、1948年生まれで、タジク人、パルバン州生まれで、ソビエト・アフガン戦争時、「シュロイー・エ・ネゾル」の諜報機関を指導し、カブール工業大学の卒業生で、ダリ語、パシュトゥ語及びロシア語を操る。国家保安局の機構には、情報局、防諜・軍事防諜局、経済保護局、匪賊対策局、知識人・青年・宗教・政治組織業務局、人事局、並びに暗号、経済、輸送局及び特殊通信局が存在するものと推測される。疑いなく、当機構は、正式なものである公算が大きい。別の問題は、国家保安局の実際の活動である。全ての駐外アフガニスタン外交使節団において、国家保安局職員のために2〜3の場所が確保されていることが知られている。外交カバーの下で働く国家保安局職員は、滞在国でも、しばしば滞在国の隣接国でも、主として、諜報及び防諜(アフガン難民中における)活動を実施している。国家保安局第1局(情報)及び第7局(イデオロギー分野)の枠内において、国外支局は、最近、CIS諸国に関して特に活発に活動している。この業務の主要任務は、全面的情報の収集、アフガン難民に存在するアフガン公式政府に敵対する党派及び運動の解体、穏健なイスラム教のプロパガンダ、政敵の権威失墜である。

アフガニスタン民族イスラム運動
ジュムベシュ・ミリ・イスロミ・アフゴニストン

 アフガニスタン民族イスラム運動は、その専従党員の多くがバブラク・カルマリ及びナジブラ政府と密接に関係したアフガニスタンの政治舞台で活動する恐らく唯一の軍事・政治集団であり、アフガニスタン民族イスラム運動において、その大多数は、内部派閥「パルチャム」に入った。各種民族集団の代表の利益を反映する運動は、主として、国の発展の世俗的方針に傾いている。それにも拘らず、大多数は、ウズベク人が構成する。1992年、ドスタムは、アフガニスタン民族イスラム運動を組織し、その指導者となった。アフガニスタン民族イスラム運動の任務となったのは、「イスラム教に基づく」連邦制国家のアフガニスタンにおける創設のための闘いである(文書第2項「民族イスラム運動の政治目的」)。それにも拘らず、90年代中盤、ドスタムは、北部でのイスラム国家の創設も排除しなかった。

 党派の創設者で、党首であるアブドゥル・ラシド・ドスタムは、ジョーズガン州、シベルガン市周辺のある集落の出身で、1958年頃に生まれ、ウズベク人(別の情報によれば、クィプチャク人)であり、80年代、ナジブラ政府の軍務に就き、当時、将官の階級を得て、旧政府軍の第53歩兵師団長となり、その部隊は、1991年頃から武装敵対派側で戦闘に参加した。アフガニスタン民族イスラム運動の支持者の大多数が、ウズベク人、トルクメン人等、トルコ系民族の代表者が構成する以上、尊基盤は、この民族の居住領域であり、北部のジョーズガン、クンドゥス、サマンガン、バルフ、ファリアブ、バトギス州である。事実上、運動は、機構的にドスタム将軍の軍事部隊と関連し、現地当局と密接に協力しつつ、イデオロギー上でも、実践的にもこの部隊への支援を保障する政治連合体である。非常に多くの場合、アフガニスタン民族イスラム運動の地域機構は、同時に地域権力でもあり、必要な際、権力機能の行使のために、伝統的な機構(長老会議等)が参加する。特に、そのような権力の図式は、1997〜1998年の各時期に、ジョーズガン及びファリアブ州において、記者により観察された。個々の地域(特に、ファリアブ州のケイサル、アリマル居住区)において、地域権力のこの図式は、軍事要素も含んでいた。言い換えれば、村長は、同時に政治指導者であるだけではなく、地域守備隊及びそれに加わる軍事部隊の指揮官でもある。ドスタムは、長期間、非公式にタシケントを訪問しつつ、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフと密接な接触を維持している。

 1998年9月(ドスタムの2度目の移民)までは、特務機関、アフガニスタン国家イスラム保安総局(以下「国家保安総局」という。)の存在について真面目に話すことができる。国家保安総局、「リエサト-エ・ウムミ-エ・アムニヤト-エ・ミリ-エ・イスロミ-エ」は、1992年末、アフガニスタン民主共和国国家保安省に基づき創設された。その指導者は、同時にドスタムの副党首で、彼の駐テルメーズ市(ウズベキスタン共和国)代理人であるセイード・コミリ大将だった。国家保安総局の構成は、機構的に、情報局、防諜局、軍事防諜局、経済施設局、匪賊対策局、教育・科学・創作・社会組織施設局に分かれた。バグラン、サマンガン、ジョーズガン、ファリアブ州及びサリプリ郡には、自治機構に割り当てられた地域機関が存在した。国家保安総局職員の中には、ソ連で教育を受け、ロシア語を話す者を含めて、アフガニスタン民主共和国国家保安省元職員の割合が非常に高かった。

アフガニスタン・イスラム統一党
ヘズビ・バフドジ・イスロミ・アフゴニストン

 アフガンのシーア派、何よりもハザラ人を統合する。先ず第1に宗教的に結集しつつ、アフガニスタン・イスラム統一党は、伝統的に隣国イランを指向している。アフガニスタン・イスラム統一党は、1990年、親イラン指向の一連のシーア派集団の同盟として、イラン領土で創設された。アフガニスタン・イスラム党の創設は、イランの宗教権威オリ-エスラム・モルタザビ師が後援し、初代指導者には、アブドゥル・アリ・マザリがなった。アフガニスタン・イスラム党の創設には、イランの宗教・政治活動家サイエド・ベヘシュチ、オリ-エスラム・ザエジ、サデギ(ニリ)、ファズリ、サイエド・ジャルガンも協力した。1995年3月、タリバンにより、党の創設者アブドゥル・アリ・マザリが暗殺され、その後、分裂が引き続いた。派閥の1つの指導者M.アクバリは、イランに移民した。アフガニスタン領土で活動する主要なシーア派集団を率いたのは、アブドゥル・カリム・ハリリ教授である。アフガニスタン民族イスラム運動の主目的は、イラン型穏健派原理主義の原則におけるイスラム国家のアフガニスタンにおける創設である。未来のアフガニスタンの問題におけるアフガニスタン民族イスラム運動の立場は、シーア派が25%以上を得られる連合政府の創設である。アフガニスタン・イスラム統一党の特務機関、「リエサト-エ・アムニヤト-エ・イスロミ-エ・ヘズブ-エ・バフダト」は、1993年、当時のシーア派指導者アブドゥラ・アリ・マザリの直接参加の下で創設された。党機構は、独自の活動を実施している。特務機構の活動の総合指導は、1998年秋まで、アフガニスタン・イスラム統一党バルフ州代表部の長、ハジ・モハンマド・ムハキックが実施した。党首アブドゥル・カリム・ハリリのイラン移民後、ムハキックは、アフガニスタン領土におけるハザラ人の軍事・政治機構の総合指導を引き受けた。上記事件まで、その副官は、北部州での業務を担当するラヒミと、ハザラジャートを除く中央部の州で働いていたアブドゥル・バヒルだった。特に、ラヒミがイラン・イスラム共和国で5年以上暮らし、彼の親イラン指向がかなり明らかなことが知られている。1998年9〜10月、カリム・ハリリは、イラン(メシュヘド)に移民し、ムハキックは、事実上、ハザラ人部隊の抵抗を、何よりも、バーミヤン、グルバンド峡谷、バルフ及びサマンガンにおいて指揮した。

シーア派諸派

 アフガニスタン民族イスラム運動の外、更に重要な一連の小さな親イラン指向のシーア派組織が存在する。

アフガニスタン・イスラム運動−ハラカート-エ・イスロミ

 穏健派の党は、1979年、モハンマド・アセフ・モフセニ(カンダハル出身)により創設され、クムイ(イラン)を中心地とし、ザヘダン、テイエバード、テヘラン、トルベテ・ジャム市(全てイラン)、並びにクウェッタ、ミラムシャフ、ペシャワール、チャマン(全てパキスタン)に支部を置く。アフガニスタンでの行動地帯は、ヘラート、ガズニ、バーミヤン、カンダハル、ギリメンドである。2千人までの専従兵士と1万5千人までの追随者を数える。アフガニスタン領土においては、1992年から活発に行動し始めた。

アフガニスタン・イスラム連合革命会議−シュラ

 ハザラジャートの事実上の自治に賛成している。オリ-エスラム・サデクの直接指導の下、イラン革命防衛隊の支援下で創設された。4千人以上の「シュラ」兵士は、イラクに対する戦闘行動に参加した。サイエド・ベヘシュチが率いる。

アッラー党−ヒズボラ

 指導者は、カリ・ヤクダストで、軍事指導者は、バリ・モハンマドである。本部庁舎は、テヘランに、支部は、ザヘダン、メシュヘド、テイエバードに位置する。1980年に創設され、主として、ヘラート及びファラー州出身のシーア派を包摂する。1,500人の専従兵士を有し、その部隊は、主として、ヘラート、ファラー、ゴール、バーミヤン、ウルズガン州で行動している。

ナスル

 指導者カジ・アミンは、イスラム抵抗運動及びヘクマティヤルのアフガニスタン・イスラム党の創設者の1人である。長期間、ブルハヌディン・ラバニと積極的に協力した。「ナスル」は、1979年に創設され、暫くの間、「アフガニスタン戦う聖職者組織」の名前を帯びた。行動地区は、ベフスド(ナンガルハル)、ウルズガン、パルボン、マザリ・シャリフ市である。

アフガニスタン・イスラム革命警備団−セパヘ・パスダル

 指導者は、モフセン・レザイである。1983年にイラン革命防衛隊の監督下で創設されたが、ソビエト・アフガン戦争時代、中国の大きな支援も受けた。指導部の中では、毛沢東主義が一般的であり、戦争時、部隊では、多数の中国人教官が行動した。80年代中盤、主として、「ナスル」と協調して行動した。90年代末までに、ほぼ3千人の専従兵士、約8千人の支持者を有した。行動地区は、ゴール、バーミヤンである。

■聖職者とイスラム青年

 カンダハル、ファラー及びゲリメンド州の機構弱体なシーア派組織は、1980年に創設された。

■アフガニスタン・ムスリム人民フェダイ

 バルフ州(主として、マザリ・シャリフ市)のシーア派により創設された組織で、思想的首唱者は、セイード・イスマイル・バルヒと考えられている。

■「稲妻」−ラード

 1976年、マザリ・シャリフ出身のシーア派宗教活動家マハンマド・ハザイ及びセイード・イスマイル・バルヒにより創設され、80年代、モハンマド・アセフ・モフセニが率いた。個人テロ戦術の傾向を伴い、バルフ及びヘラート州で活動を続けている。

イスマイル派

 政府連合集団の中で特別な場所を占めているのは、セイード・アブドゥル・ジャッファル・ナジリをその長とするイスマイル派である。実際、その本部を通常プル・イ・フムリ(バグラン)に置くナジリは、全てのイスマイル派を支配しているわけではない。彼自身は、ハザラ人出身であるため、イスマイル派パミール人は、彼に従属していない。

アフガニスタン・イスラム党(G.ヘクマティヤル)
イッチホド・イスロミ・アフゴニストン

 アフガニスタン南東部の州(カブール、バグラン、クナル、ラグマン州)、並びに南東部のパシュトゥン人の州の右翼原理主義者の利益を代表する。北部(バダフシャンですら)のパシュトゥン人の中でも、影響力を有する。党首グリベディン・ヘクマティヤルは、最大の部族連合ギリザイの貴族階級出身のパシュトゥン人である。事実上、残り全ての現在の党派(、アフガニスタン民族イスラム運動を除く。)は、かつて、ヘクマティヤルの党から生まれた。党は、グリベディン・ヘクマティヤルとカジ・モハンマド・アミンによりカブール大学に創設された「ムスリム青年」組織の過激派に基づき、1976年、パキスタンで創設された。アフガニスタン・イスラム党は、その活動当初から、パキスタンの党「ジャミアト-エ・イスロミ」及び「 ムスリム同胞団」を指向した。タジキスタンのイスラム敵対派の過激派を積極的に支援している。90年代頃から、アフガニスタン・イスラム党は、パシュトゥン人が優勢な唯一の党である。特に、南東部(ウルズガン、ザボル、ゲリマンド、カンダハル、ガズニ、パクティア州等)のパシュトゥン人住民は、ヘクマティヤルにとっての基盤である。パシュトゥン人の基盤は、ヘクマティヤルのアフガニスタン・イスラム党に、パキスタン北西部のパシュトゥン人住民もかなり接していたことも原因となった。特に、この党の土壌には、「タリバン」運動の政治舞台への出現まで、パシュトゥン人が居住する州のパキスタンからの割譲と、大パシュトゥニスタンの創設の構想が見られた。ヘクマティヤル自身のデータによれば、党は、10万人以上を数えるが、このデータは、勿論、極めて条件付のものである。アフガニスタンの残り全ての党派と同様、ここでの記録数は、存在していない。アフガニスタン・イスラム党に対する大打撃となったのは、「タリバン」運動の出現であり、ヘクマティヤル支持者の大部分がそちら側に移った。この原因となったのは、タリバンが扇動した民族要素の公算が大きい。ヘクマティヤルは、タジク人集団(ラバニ−マスード)と合意して行動し、タジク人のラバニ大統領の下で首相のポストに就くことに同意した。歴史的にアフガニスタンを常に率いたのがパシュトゥン人である事実を考慮すれば、これは、パシュトゥン人の民族利益を忘れ去ると同時に、ヘクマティヤルの権威を打撃した。加えて、彼自身の生まれは、昔からの南部パシュトゥン人地域出身ではなかった。グリベディン・ヘクマティヤルは、クンドゥス州北部、イマムサヒブ(別のデータによれば、同じく北部のバルフ州の同盟のイマムサヒブ村)に生まれ、1946年又は1947年生まれである。ヘクマティヤルは、パシュトゥン人の部族連合ギリザイの貴族階級に属する。彼の最初の行動は、パキスタン政府により支援され、パキスタンでのパシュトゥン人運動を支援していたダウド政府に反対する1975年のパンジシェル峡谷での蜂起の指導に遡る。ずる賢く、功名心に富み、無慈悲なヘクマティヤルは、失敗したクーデターの試み中、ナジブラ政府の元国防相シャフナバズ・タナイ将軍に合流し、後に、ブルハヌディン・ラバニ政府に反対したドスタム将軍と同盟を組んだ1990年3月、その政治的日和見主義を明らかに発揮した。直接の意義においてムラー(師)ではないヘクマティヤルは、イスラム国家のイデオロギーに忠実な現代的イスラム教徒である。彼は、タジキスタン、チェチェン及びカシミールの過激派を人的及び物的手段で積極的に支援した。

 1996年秋、カブール陥落後、ヘクマティヤルの部隊の多数は、タリバン側に移り、残りは、分裂し、ヘクマティヤル自身は、イランに移住し、難民から成る新しい部隊の訓練に従事した。1996年末から1998年夏まで、ヘクマティヤルの名前は、国内の報道でほとんど言及されていない。彼は、1998年春からアフガニスタンに帰国し、バルフに移住し、当初、積極的な政治及び軍事活動には従事しなかった。ヘクマティヤルの名前は、北部でのタリバンの新たな攻撃時、夏の末にニュース報道にしばしば現れ始めている。それにも拘らず、1999年初めまでに、アフガニスタン生活への彼の参加は、再び最小化している。最も長い伝統を有する組織として、アフガニスタン・イスラム党は、特殊機能の遂行に関して、かなり強力な機構も保有していた。「サクハル」機関として知られるアフガニスタン・イスラム党「イスラム保安庁」、「ヘダモト-エ・アムニヤト-エ・イスロム」は、1991年、1980年頃からグリベディン・ヘクマティヤルのアフガニスタン・イスラム党機構で活動していた「イスラム神の僕庁」に基づき創設された。当機構がジハード運動の最も活発な展開及びこの方面における一連の諸国との協力期間に創設されたため、ヘクマティヤルの特務機関は、パキスタン省庁間情報局(ISI)の直接参加の下で創設された。特務機関「サクハル」の活動における典型的な特徴の中には、敵が支配する領域に存在する諜報エージェント網の利用、並びに親戚からの人質の略取、財産の破壊等を含む強制方法の広範囲な使用が挙げられる。90年代中盤までのデータによれば、アフガニスタン・イスラム党の武装部隊は、兵士3万人までを数えた。ヘクマティヤルは、イスラム組織「ジャマート-イ・イスロミ」(パキスタン)、タジキスタン・イスラム復興党、「ヒズブ・ウリ-ムジャヒディン」、「アル・バルク」、「ハラカート・ウリ・ムジャヒディン」及びカシミールの「ジャーマト-イ・イスロミ」との連絡を維持している。

「タリバン」運動

 政府勢力と同様、「タリバン」運動が均質な機構ではないことを直ちに言う必要がある。最高会議の庇護の下、「タリバン」運動は、タリバン自身(運動の骨幹、3千人以上で、1992年にペシャワールのキャンプで編成され、パキスタン国防省の教育センターで訓練を受け、モハンマド・オマル師の下に合流した。)も、各時期に運動に合流した一連の党派及び運動も活動している。1996年9月、タリバンによるカブール奪取後直ちに、「タリバン」の最高指導者モハンマド・オマル師は、自分の運動の本質をこう評した。「「タリバン」運動は、アフガン・ムジャヒディンの連合体であり、その目的は、当初から、アフガニスタンにおけるシャリアート統治の強化と同国からの悪及び無信仰の追放だった。これは、世界がアフガンのジハードの目的及び結果から利益を引き出すことを希望する人々の複数の集団から成るムジャヒディンの党派である。彼らは、公的な集団ではないが、悪に反駁するムジャヒディンの行動の本質によれば、彼らは、改革者の組織である。周知の通り、アフガンのジハードの目的は、アフガニスタンにおけるロシアの影響力の停止、並びに同国におけるムスリム宗教への援助の提供であった。14年間に渡り、アフガンのムジャヒディンは、数十万人の生命を救った。千人の男性、女性及び老人中、百人は、ヒドゲラトを強制的に実行せざるを得なかったが、14年間の闘争後、イスラム国家がアフガニスタンに樹立された。それにも拘らず、不幸なことに、ブルハヌディン・ラバニ、ヘクマティヤル及びアフマド・シャー・マスードのようなアフガン指導者が、内戦勃発までもを許したため、この夢は、最後まで叶えられず、アフガニスタンは、恥辱の象徴となった。人々の生命、その財産、尊厳及び名誉を救うのが非常に難しくなった。この期間は、無法と無信仰の期間となり、状況を正常化し、軍事行動を停止する全ての試みは、失敗に終わり、それに基づき協定が署名された主要文書は、廃棄された。事件のそのような展開後、ウリム・エ・キラームの複数の指導者がカンダハルに集まり、アッラーに対する信仰と確信を持って、クフル、ロシアのような超大国に対してジハードを開始したように、国内の悪を撲滅し、シャリアート権力を樹立し、権力を有するが、シャリアートに沿って行使していない指導者に対するジハードを実行するために、今日も活動し、アフガニスタンの地を模範的な国家とすることを追求することを誓った」。

 「タリバン」運動の形成は、アフガニスタンからのソビエト軍の撤退と、それに引き続いて予想されるナジブラ大統領体制の崩壊の展望が認められた80年代後半頃に遡る。将来の計画は、国の支配の確立、そのために国の統治を整備できる何らかの軍事・政治勢力の創設を要求した。既存のどの組織勢力も国がカオスに陥るのを留められないことに驚き、パキスタン特務機関(ある情報によれば、国連難民高等弁務官事務所の使節団に浸透した西側エージェントの支援の下)は、「新勢力」の創設に関する業務を開始した。パキスタン領土のアフガン難民キャンプでは、政権の戦力、行政その他の機構の組織の能力を有する専門家の選抜が始まった。特務機関と接触して働いたイスラム組織は、閉鎖型特殊宗教学校での教育のために、就学年齢の子供を選抜した。特に、この学校の卒業生(タリバン)は、運動の骨幹も構成した。

 1994年9月、パキスタン外務相サルダル・オセフ・アリがカブールを訪問し、ヘクマティヤル並びにラバニ及びマスードと個別的に交渉を行った。パキスタン外務相は、カラチ−カンダハル−ヘラート−クシュカ経路上の輸送幹線の建設計画について、アフガン指導者に知らせ、その安全の保障のために、パキスタン領土に存在する宗教学校の卒業生から成る政府に忠実なパシュトゥン人軍事部隊を南部の州に創設することを提案した。青年時代をメドレセで学んだパキスタン外務相の意見によれば、民族統一の精神を育成し、そのことによって国内の新たな緊張段階を回避することは非常に簡単である」。一方のタジク人指導者ラバニ及びマスードと、他方のパシュトゥン人ヘクマティヤル間の対立における巧妙なゲームは、新しい部隊の創設の事実自体、並びにパキスタン政府によるその出資及びその領域で幹線の建設が始まるはずだった数州の「新勢力」の支配下への移管に対する両者の同意をパキスタン外務相が獲得することを可能にした。

 事態の発展過程において、「タリバン」の当初の核心であるペシャワールのメドレセ出身者には、他の党派及び集団も合流した。最初の1つなったのは、ヘクマティヤルのアフガニスタン・イスラム党から離脱したバシル・バグラニ指揮下の部隊(1997年夏から2000年夏まで、クンドゥス州を支配し、特にバシル・バグラニの部隊は、「タリバン」運動のいわゆる「クンドゥス・グループ」を構成した)。

■「タリバン」のイデオロギーと政策

 バークレー大学(米国、カリフォルニア)教授、フランツ・シュルマンは、タリバンのイデオロギー、何よりも、その政策の本質を次のように定義しようとしている。彼の評価は、1997年に遡る。「数年前のタリバンによるカブール奪取は、イスラエルとパレスチナ間の定期的な衝突ほど西側プレス上で報道されなかった。しかし、未来の歴史家は、恐らく、タリバンの勝利が既にここで50年間続く紛争における暴力の爆発以上に世界を変えたことを認めるだろう・・・。タリバンは、力によって10億人の住民を有するイスラム世界を幸福にするという唯一の目的を持って、アジアの戦略的に重要な国の権力を握った。タリバンにとっての価値である原理主義の概念は、彼らによれば、宗教、正確に言えば、イスラム教だけを借用できる特別な社会倫理を創出している。彼らのアフガニスタン中への電撃的前身は、そのような見解の著しい普遍性の証明である。更に、アフガニスタンのいたる所では、部族の長のタリバンへの敵対関係と、普通の人々の熱狂的な歓迎という光景が観察された。タリバンの不朽の人気の原因は、恐らく、60年代にアフガンの学生を騒がせた革命的感情に起因するだろう。当時の世界各地の他の学生運動と同様に、アフガンの学生は、マルクス・レーニン主義を信奉した。しかし、労働階級又は学生自体に集中した欧州の流れとは異なり、アフガンの学生は、精神的に健全な主要な者達の隊列において清貧と禁欲に基づくその中国版の毛沢東主義に惹きつけられた」。

 「共産主義者が1978年にアフガニスタンの権力を掌握したとき、学説としてのマルクス・レーニン主義は、アフガンの青年の目に急速に光を失った。多くの者は、アフガン貧民の宗教だったイスラム教に注目した。学生達は、「大衆奉仕」型の毛沢東主義の公理が、イスラムの教義と非常に上手く組み合わさり、毛沢東の「人民ゲリラ戦争」戦術が、ソビエト占領軍及びカブールのその傀儡に対して上手く動作することを発見した。「テロリスト」及び「アフガンのアラブ人」、アラブ過激派理論の継承者による敵対派の援助もなくはなかったが、西側により統合されたタリバンは、実際、そうではない。彼らは、40年代末に中国共産党のような意味での熱狂的革命家である。彼らがアフガニスタンで勝利すれば、その影響力は、近隣のパキスタンだけではなく、ロシア、タジキスタン、インド、アゼルバイジャン、及びスンニー派ムスリムが圧倒的多数のトルコですら、直ちに知覚するだろう」。

 「タリバン」運動指導者、ムハンマド・オマル師は、彼が自称する称号、「アフンド」及び「アミル・アリ-ムミニン」(聖職者の長、預言者の代理人)を有する。アフガニスタン・イスラム国の政府層からの情報によれば、ISI指導部によリ「タリバン」運動の指導者に推薦された。「出身不明のこの碧眼の青年は、イスラム国家の建設を彼に命じた預言者を夢に見たことを確信した後、1994年に政治舞台に現れた。それ故、あるジャーナリストの表現によれば、「彼に反駁することは、罪同然である」。彼の証言は、普通のアフガン人の共感を獲得するためのものと考えられた。オマル師には、近代的、初等教育すらない。彼が何かを書くところを見たものはなく、このことは、彼が書き方すら知らないものと説明される。彼には、しかるべき宗教教育がなく、アラブ語(古典的なものも、現代的なものも)を理解できないため、アラブのイスラム文献に接することができない。彼は、パキスタンで全員が話す言語、ウルドゥー語の口語を理解する。陰に隠れている彼の顧問は、外国人を彼に近づけず、数人パキスタン人ジャーナリストと国連代表ラフダル・ブラヒムだけが、1999年に彼を見ることができた。この稀な会見において、彼は、通訳の助けの下で外国人と会話した。ISI退職者である通訳と彼の名前は不明と思われる。オマル師が呟いたことに通訳が一致しているのか、確認したものもいない。オマル師は、マスコミに現れず、アフガニスタンを回ることもせず、カンダハルにだけ滞在している。1994年の彼のパキスタン訪問を別にすれば、彼の国外旅行に関するいかなる情報もない」。オマル師がパシュトゥン人のギリザイ部族連合のホタク族出身であり、, ソビエト・アフガン戦争時、ユヌス・ハレスの集団の編成下で戦い、その時、目を失ったというデータが存在する。

 タリバンに合流したが、この際に独自性を維持した最大の党派は、ユヌス・ハレス、セグバトゥロ・モジャダジ、モハンマド・ナビ・モハンマジ、セイード・ゲイラニ及びアブドゥル・ラスル・サイヤフのグループである。彼ら全員は、ソビエト軍との戦争時代に形成された指導者に属する。

アフガニスタン・イスラム党
ヘズブ-エ・イスロミ

 ユヌス・ハレスの「アフガニスタン・イスラム党」は、最も原理主義的なイスラム国家の建設を目的としている。この軍事・政治集団の主要スローガンの1つは、ジハードである。ユヌス・ハレスは、イスラム革命の輸出を公然と訴えている。彼のアフガン復興に関する提示は、クフルとイスラムの闘争、並びにコーラン、スンニー及びシャリアートに基づくイスラム国家の建設構想に帰結する。ハレスは、近代的選挙制国家システムを反ムスリム的であると考えている。党員は、約3万人を数え、武装部隊は、1万人以下であることが確認されている。ユヌス・ハレスは、グリベディン・ヘクマティヤルの党の出身者で、ダウド統治期間、特にソビエト軍への抵抗期間のムジャヒディン運動の指導者の1人で、著名な神学者である。彼は、パシュトゥン人で、1944年生まれ、カブール市出身である。モハンマド・ユヌス・ハレス師は、ナンガルハル州、特にナンガルハル市に居住するパシュトゥン人のフギアニ部族出身で、並びに隣接するパクティア、パクチカ及びクナル州には、彼の部隊の主要社会基盤が存在する。これは、ジャドラン及びフギアニ族のパシュトゥン人で、多くのカブール及びカンダハル出身のウレム、モウラビ及びメドレセの学生も存在する。

アフガニスタン・イスラム民族戦線
ハズ-エ・ミリ-エ・イスロミ・アフゴニストン

 スーフィ教団の精神的指導者セイード・アフマド・ゲイラニにより、1978年にパキスタン領土で創設された伝統的(王党派)な党派。ゲイラニは、1934年頃に生まれ、教団の世襲指導者アル・カジリーア一族の出身である。主要構成は、ゲイラニの狂信的信者(1万5千人以下)、教団の信奉者(特にパシュトゥン人のギリザイ族のスレイマン・ヘリ等)。書籍では、ゲイラニ部隊の員数は1万8千人とされている。元体制派のパシュトゥン人が多い。影響力の優勢な地区は、パクティア、ナンガルハル、ザボル、並びに北部及び北東部の州のパシュトゥン人地区である。この意義において、アフガニスタン・イスラム民族戦線は、ヘクマティヤルのアフガニスタン・イスラム党の直接のライバルである。スーフィ教団アル・カジリーアは、16世紀からアフガニスタンに定着した。アル・カジリーアへのゲイラニの所属の事実の表面上の確認はないにも拘らず(彼の出身を除き)、同時に、彼を排除するのも性急である。各国において、アブド・アル-ゲイラニ(教団創設者、11〜12世紀)の信奉者が様々に振舞い、教団への自分の所属を必ずしも宣伝しないことが知られている。同時に、アル・カジーリアがムスリム世界で最も広く流布したスーフィ教団であり、その構成員がどの国でも政治及び戦争への参加に無関係ではないことも知られている。アル・カジーリア教団には、特に、チェチェン分離主義者の指導者の多くも属している。ゲイラニは、元アフガニスタン国王ザヒル・シャーとの関係を維持しており、王政復興に賛成している。

アフガニスタン救国人民戦線
ジャブハ-イエ・ネジャテ・メリ

 党首は、セグバトゥロ・モジャダジである。イスラム法教授で、ブルハヌディン・ラバニと同様、カブール大学神学部卒業生である。パシュトゥン人、カブール出身、1938年頃に生まれ、スーフィ教団の北インドの分派アル・ナクシュバンディーア(ムジャディディーア)創設者の子孫である。ある情報源では、アフガニスタン救国人民戦線の党員数が約10万人と確認されているが、これは、大いに疑わしい。イデオロギーの基盤には、世俗的民族伝統が存在する。党派は、1979年にパキスタン領土で創設された。指導部には、著しい数のウレム、カブールの協会モハンマジの元メンバー、少なからない旧体制の代表、多くのアル・ナクシュバンディーアの信奉者が存在する。民族関係においては、パシュトゥン人が優勢である。主要影響地区は、カブール、ナンガルハル、パクチア、ロガル、クナル州であり、支持者と少数の部隊が、クンドゥス、タハール、ファリアブ州に存在する。1981年、セグバトゥロ・モジャダジの党派から、モハンマド・ミルの派閥が分離した(文献では、アフガニスタン救国戦線-1の名前で出てくる。)。

アフガニスタン・イスラム革命運動
ハラカート-エ・エン-ケラブ-エイスロミ

 民族伝統的で、穏健派聖職権拡大主義の党派は、モハンマド・ナビ・モハンマジ(ロガル州のアフマジャイ族のパシュトゥン人、ナジブラと同族)により、1978年にパキスタン領土で創設された。アフガニスタン・イスラム革命運動の基盤構成は、ウレム、モハンマド・ダウドの権力掌握までカブールで合法的に活動していた「コーラン聖職者」協会の専従職員の多くである。最大の影響力を得ているのは、カブール、パクティア、ザボル、ロガル、ガズニ、カンダハル州のパシュトゥン人中である。民族関係においては、パシュトゥン人が優勢であり、ウズベク人及びトルクメン人も存在する。シンジクラ(プリ・チャルヒ地区)、ラスド・アフンザデ(ギリメンド)、カリ・ババ(ガズニ)指揮下の子集団が存在する。

アフガニスタン・イスラム解放同盟
イッチホド-エ・イスロミ

 右翼原理主義者を統合している。指導者アブドゥル・ラスド・サイヤフは、著名な宗教的権威で、1936年頃に生まれ、カブール州、パグマン出身のパシュトゥン人である。サイヤフは、ハフィズラ・アミンの親戚であり、カブールにおける国際組織「 ムスリム同胞団」の活動家だった。自分の党派は、1982年、パキスタンにおいて、主として、B.ラバニのアフガニスタン・イスラム協会及びヘクマティヤルのアフガニスタン・イスラム党の元参加者から創設した。反タリバン連合の政治家の中で、サイヤフは、アフガンのバーブ教徒(北インドの分派で、その支持者は、信仰問題におけるその固有の過激主義と敵への不寛容を有する初期のバーブ教を志向している。)の長と考えられている。党の公式目的としては、古典的イスラム国家の建設が公表されている。最大の影響力を得ているのは、カブール、クナル、パクティア、パクチカ及びナンガルハル州のジャジ、マンガル及びジャドラン族のパシュトゥン人中である。戦闘部隊は、4千人を数え、その多くは、ソビエト・アフガン戦争時からアフガニスタンに留まっているアラブその他のムスリム諸国からの戦闘員である。1984年から、パクティアにおいて、ジャジ族のパシュトゥン人及び傭兵からサイヤフにより編成された戦闘部隊「アル・ファタハ」が活動した。サイヤフは、サウジアラビア指向の支持者で、このことは、彼のバーブ教の信奉を間接的に証明している。サイヤフの戦闘集団(2万人以下)の出資は、サウジアラビアの過激派により実施されていることが確認されている。

結論

 検討した軍事・政治集団の多くは、90年代末までに、事実上、その自主的な存在を停止し、その参加者は、移民するか、イデオロギー及び民族所属に関して最も近い党派及び集団の一員に加わった。

 このようにして、過去数十年間のアフガニスタンにおける軍事・政治機構の形成の原則は、主として、民族所属と対外指向の2つの要素に基づき創設されていることを確認できる。後者の要素は、隣接国及び地域への不安定化の拡大に対して、アフガン紛争の国際化及びアフガニスタン領土の利用の過程において、最も重要な役割を演じている。これは、最近のアフガニスタンの歴史、何よりも、軍事及び政治事件及び過程の時系列的研究の際、完全に明らかになりつつある。

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最終更新日:2004/03/15

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