第22章 狂気の代価

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 そのような条件下において、アフガニスタン領土へのソビエト軍の進入が、狂気の沙汰だったのは完全に明らかである。「4月革命の擁護のために」この一歩を主張した当時権力絶大だったKGB議長ユーリー・アンドロポフは、おぞましい悪行を実行し、事実上、現実とは何の共通点も有さなかったイデオロギー上の公理に合わせて、何千人ものソビエトの若者を確実な死に送った。特にアンドロポフは、新しいアフガニスタン人民民主党中央委員会政治局と革命軍事会議を設置したバブラク・カルマリと彼のチームを飛行機でカブールに送り届けた。

 国民の宗教層、言い換えれば、多数派は、ソビエト軍の「限定部隊」の導入をイスラムに対する「異教徒」の新たな十字軍として受け止めた。何千人ものアフガン人が、多数の即席のゲリラ部隊 に合流するために、自分の家を捨てた。 多くの者はまた、「国外」、つまりパキスタンとイランに去り、これらの国の領内で活動していたアフガン野党の隊列に加入した。事実上、1979年末、アフガン・パキスタン国境は、敵対派とそれに同盟する現地部族の支配下にあった。2,060kmの森に覆われた山岳地形には、数十の隊商路及び小道が通り、ムジャヒディンと武器、弾薬、医薬品及び通信手段を積んだ 隊商がアフガニスタンに向かった。ちなみに、原理主義者が必要としたこれら商品の多くは、後に、特にアフガン戦争のおかげで、世界的規模のテロリストかつテロのスポンサーとなった当時まだ若かったサウジの百万長者、オサマ・ビン-ラディンにより購入されていた。彼を正当に評価する必要がある。参戦初日から既に、彼は、有能な組織者かつ指揮官として自らを現した。つまり、例えば、ビン-ラディンは、後にムジャヒディンの有名な地下トンネルの建設 のために使用された重掘削機をかろうじて通れる峠を通して奇跡的に引っ張り込むことができた。

 アフガン敵対派の本部庁舎及びその訓練キャンプは、隣国パキスタン領土に存在した。1980〜81年、キャンプだけで、約70ヶ所を数えた。その下では、ムジャヒディンのための野戦病院及び宗教教育センターが活動していた。イスラム教徒の活動の中心地の1つだったのは、既に言及したペシャワールである。1981年、ここには、約73,000人のアフガン人がまとまって居住し、その上、その約3分の2は、原理主義者だった。

 ペシャワールに落ち着いた全ての野党は、その政治・イデオロギー指向により、イスラム原理主義者と宗教穏健派の民族・君主制主義者の2つの主要グループに分けられた。第1のグループには、ラバニの「ジャマート-エ・イスラミ」、ヘクマティヤルの「ヘズブ-イ・イスラミ」、ユヌス・ハレスの同名の党及びラスル・サイヤフの「アフガニスタン解放イスラム同盟」が含まれた。第2グループは、サイド・アフマド・ゲイラニの「アフガニスタン民族イスラム戦線」、ムハンマド・ナビ・モハンマジの「アフガニスタン・イスラム革命運動」及びシブハトゥラ・モジャッディジの「アフガニスタン救国民族戦線」のいわゆる「三者連合」の周囲に形成された。主として、農村のムラー、部族長、土地所有者及びスーフィー教団により支持されていたこれらの政党は、1973年以前の状態にアフガニスタンを戻し、ザヒル・シャーを長とする立憲君主制を国内に復興しようとしていた。イスラム原理主義者と共に、彼らの支持者だったのは、敬虔なスンニー派だった。同時に、アフガンのシーア派も、主として隣国イランを指向し、ホメイン師の思想の最も強い影響を受けた独自の政党、組織及びゲリラ集団を有していた。

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最終更新日:2004/04/09

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