第27章 テヘランの「第5列」

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カブール、Shah-i-Naiモスク 70年代末〜80年代前半、原理主義思想の発展がアフガニスタンのスンニー派中だけではなく、現地シーア派共同体でも起こったことを指摘すべきである。イスラムのこの潮流の支持者の数は、上記期間、アフガニスタン全住民の約10〜15%に達した。シーア派は、主として、中央及び西部の州に居住している。主としてハザラ人が居住する接近困難な山岳地区であるハザラジャートには、彼らの多数の村が存在する。既に60年代中盤から、ハザラジャートでは、青年シーア派原理主義のイデオロギー上の影響力が顕著になりつつある。イラン及びイラクの大教育センターから帰国したハザラ人は、新しい宗教及び政治思想をもたらした。70年代、この州に、 アヤトラ・ホメイニの信奉者のグループが現れた。その結果、1979年初めに「アフガニスタン・イスラム同盟革命会議」がハザラジャートで大規模蜂起を組織したとき、現地シーア派原理主義者は、それに最も積極的に参加した。州の権力奪取後、会議の指導者達は、ハザラジャート独立政府を創設し、シーア派過激派も加わった。 後者は、同盟のパートナーと常に言い争い、最終的に、1984年春、「サザマン-イ・ナスル」と「サジャフ-イ・パスダラン」両党の親イラン・ブロックが権力を掌握した。この事件は、アフガニスタン領土におけるイランの影響力を著しく増加させた。

 ハザラジャートの外、ヘラート地区でも、強いイランの影響力が感じられた。イラン自体の領土では、1980〜81年、アフガンのムジャヒディンのための25ヶ所までの教育・訓練キャンプが活動していた。訓練課程終了後、彼らは、850kmのアフガニスタンとの国境を横断し、西部及び中央地区で行動するゲリラ部隊に合流した。

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最終更新日:2004/04/09

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