第8章 カブールでのパレード

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ガズニ陥落 前記の事件は、後に第1次アフガン戦争と命名される恐ろしい流血の惨事への前奏だった。これは、同国の事後の発展を決定付け、現地宗教原理主義の形成における主要要素の1つであるアフガニスタン近代史最初のその領土への欧州軍の侵入だった。軍事作戦を計画し、自分の軍事的才能と植民地軍の力を全く当てにしていた英参謀将校は、過去の教訓を学ばなかった。というのも、これらの教訓は、アフガニスタンでの勝利が不可能であることを一目瞭然に証明していたからである。ここにやって来た征服者を待っているのは、想像し難い複雑な条件下での耐え難く、果てしない戦争、精神的堕落、最終的に、軍の屈辱的な消滅である。

 しかしながら、記述する期間は、撃破までには、まだ遠い。1838年7月、東インド会社指導部は、地域におけるロシアの影響力強化を恐れて、シーク教徒のマハラジャ、ランジト・シング(バーブ教徒と戦っていた。)及び、既に以前アフガニスタンを暫くの間統治し、今同国の傀儡統治者となるはずである某シャー・シュジャと協定に署名した。同時に、英・ペルシャ協定の署名直前、「ペルシャ・ロシアの脅威からのヘラートの防衛」のためのアフガニスタン領土への英国の侵入計画が立案された。第1段階において、この行為は、ペルシャ湾での英艦隊の行動により印象が強化されるはずであり、これは実際に起こったが、事後、アフガニスタン全土に対する英国の支配を確立する試みが既に起こっていた。

シャー・シュジャ このようにして、ジョン・キーン氏指揮下の主としてインド人から成る2万1千人の英軍は、1838年10月、インド・アフガン国境を横断した。事後の事件は、ほぼ160後にカフカーズにおいてロシア軍が行うチェチェン戦争の第1段階を驚くほど想起させる。1994年12月のグローズヌイでのロシア人のパレードと同様に、1839年前半、英連隊は、早期勝利を確信しつつ、カブールに移動した。そして実際、当初、彼らには、成功が伴った。4月、カンダハルが占領され、7月21日、ガズニが陥落し、最後に、8月7日、英遠征軍の主力は、陥落したカブールに入城した。

 アフガニスタン国王としては、ドスト・ムハンマドが北部に逃亡せざるを得ず、援助についてロシア帝国に虚しく訴えていたにも拘らず、インドから連れ込まれたシャー・シュジャが直ちに布告された。しかしながら、ニコライは、このとき、ロシアには近東地域における英国との接近の稀な機会が提示された以上、アフガニスタンによって、ロンドンとの関係を損なうつもりはなかった。これは、勿論、その賭けの対象がアフガニスタンだった「ビッグ・ゲーム」において、ロシアの同僚と再試合を行っていた英外交官の卓越したトリックに過ぎなかった。ニコライI世は、インド進出のその当初の計画を否定した。ヘラート紛争時の駐アフガニスタン・ロシア代表の全ての行動が、ヴィトケヴィッチ側からの権限踰越の結果だったと、彼が全く突然に表明した以上なおさらだった。その結果、ロシアの軍事教官と外交官は、サンクト・ペテルブルグに緊急召還され、ヴィトケヴィッチ少佐は、祖国への帰還により、首都のホテルの1つで、不詳の事情の下、射殺された。彼の全ての書類は、焼却された。このように拙劣かつ小心に、ロシア当局は、南東アジアへの道を永遠に自国に閉ざした。

 それにも拘らず、結局、ロシア人からの援助を待ちきれず、ドスト・ムハンマドは、英国人に降伏し、インドに連れ去られた。今、英国は、中央アジアにおける主敵、ロシア、及びアフガンの王座の主要要求者から同時に解放され、ヘラートの併合を試みた。しかしながら、外交努力は、成功を見なかった。ヘラートのハーンに派遣されたトッド少佐の使節は、大失敗を犯した。一方、ハーンは、昔の宿敵、イランのシャーに援助を要請した。英国人は、ヘラートに遠征軍を派遣することに決めたが、これが不可能になったことを驚いて見た。その時までに、全土で異教徒に対する「聖戦」が既に展開され、主要道路は、ムジャヒディンが支配していた 。

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最終更新日:2004/04/09

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