第9章 大虐殺

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 19世紀前半、特に30〜40年代にイスラム世界を震撼させた流血の事件は、今日その国内で起こっていることを驚くほど想起させた。ペルシャ湾沿岸では、狂信的バーブ教徒が支配し、アルジェリアでは、スーフィー教徒が「異教徒」に対して活発な布教を開始し、北カフカーズでは、聖戦「ガザバト」が燃え上がり、アフガニスタンのモスクでは、宣教師が、毎日、毎時、英国人及びインド人に対する「聖戦」に立ち上がるように、回教徒の心に訴えた。これら全ての背後には、今日と同様、イスラム過激主義の当時と今の突発間の実際的関係の存在も予想させるある1つの誘導の手が察せられた。

 アフガニスタンにおいて、「ジハード」の布教は、天恵の土壌に当たった。都市及び農村の住民、遊牧民及び未開の山岳民は、国の全ての地区から、ゲリラ部隊に集まり、神の嘉みせし大戦争を準備した。この際、その多くの記憶には、ムジャヒディンがシーク教徒のマハラジャの部隊を撃破できたバーブ教徒の復興時の事件がまだ新鮮だった。アフガニスタンで特に強大だったスーフィー教団「カジリア」及び「ナクシュバンジア」の狂信的回教徒は、多数の独自の戦闘部隊を編成した。そして、最終的に、ステップの火事のように、「ジハード」は、アフガニスタン全土で燃え上がった。当初、ムジャヒディンは、国内の全ての交通路を支配下に置き、その後、英守備隊が配置された市外に取り掛かった。1841年11月2日夜、数千人の群集は、カブールの市街を支配した。ドスト・ムハンマドの息子、ムハンマド・アクバル-ハーンが、それを指揮した。サーベル、小銃及び単なる棍棒で装備した怒り狂った群集は、「アッラー・アクバル!」の絶叫と共に、シャー・シュジャの官邸、英使節の建物及び傀儡行政府支持者の家に襲い掛かった。不運な統治者は、退位させられ、使節の長A.ベルンスは、逃走の試みの際に群集により八つ裂きにされた。同じような運命は、その恐ろしい夜、他の多くの英国将校にも待ち受けていた。これ程突然で、これ程強力な攻撃を予期していなかったカブール駐屯の英守備隊は、バッラギッサル要塞に立て籠もった。しかしながら、ムジャヒディンは、食糧倉庫を奪取し、事実上、要塞の守備隊に餓死を運命付けた。この外、英国人は、十分な燃料備蓄を有しておらず、到来した異常に雪が多く、寒い冬の条件下において厳しい犠牲を負った。

 結局、要塞に立て籠もった東インド会社総督附属外国問題担当書記マクナテンは、蜂起指導者と、アフガニスタンからの全英軍の撤退及びシャー・シュジャの事後の支援の拒否に関する条約に署名した。実際、マクナテンは、時間を稼いで、インドからの増援到着を待つことだけを期待した。交渉の次のラウンド時、彼は、アクバル-ハーンをあっさり買収して、英国人側に引き込もうと試みた。長く考えずに、客観的な蜂起の統率者は、拳銃でマクナテンを射殺し、その後、最後通牒の形で、英国人に国から去ることを要求した。

ドスト・ムハンマド 高齢のエリフィンストン少将指揮下の要塞守備隊は、服従せざるを得なかった。ムジャヒディンに事実上全ての砲兵を残して、1842年1月6日、4,500人の将兵、並びに1万2千人の人夫及び馬方から成る英部隊は、カブールを急いで離れ、インド国境方面に移動した。1週間後、ジャララバードの城壁の警備に就いていたインド人衛兵は、かつて英軍将校の軍服だったボロを着て倒れた血まみれの人間を下方に認めた。これは、後に明らかになったところによれば、数千人のカブール守備隊から奇跡的に唯一生き残ったブライドン博士だった。彼は、1月13日にホルド−カブールの峠でアフガンのムジャヒディンにより行われた恐ろしい虐殺について話した。つまり、パレードの勇壮な響きの下で始まったアフガンの首都への英遠征軍の行軍は、屈辱的に終わった。4月初め、シャー・シュジャが殺された。「異教徒」との協力における重罪を家族から取り払うことを希望した彼の親族の1人が、彼を殺害した。

 それにも拘らず、同1842年8月、前回の撃破に何も学ばなかった英国人は、アフガニスタンに対する支配を確立する新しい試みに着手した。国内に侵入し、彼らは、短期間でカブールを再び奪取し、その住民を弾圧した。しかしながら、今回も、アフガニスタン征服の構想からは、同じように、何も出てこなかった。瞬時に復活したゲリラ運動は、限定的な英戦力を叩きのめし、東インド会社指導部は、アフガン領土への遠征軍の事後の駐留が無益かつ危険だという決定を採択した。その結果、12月、英国人は、アフガニスタンを離れ、ドスト・ムハンマドは、カブールの王座に戻ることができた。

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最終更新日:2004/04/09

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