アンゴラのMiG-23

 MiG-23が広く使用されたもう1つの軍事行動地域は、アンゴラだった。南アフリカが公然と支援している反乱軍UNITAと戦闘を行っていた政府軍への援助として、1985年、キューバ人「義勇兵」が操縦する約50機のMiG-23MLとMiG-23UBが派遣された。機体の主用途は、国の死活的に重要な地区、特に、首都ルアンダの防空の保障だった。1987年、紛争の先鋭化後、戦闘機は、南部に移動した。つまり、1個MiG-23飛行隊が、ナミビアとの国境から170km、ナミベ市地区に配備された。

 その時までに、南部では、アンゴラと南アフリカ機間の数回の戦闘衝突が既に起こっており、その過程において(南アフリカの情報によれば)、「ミラージュF.1」がMiG-21MFを撃墜した。しかしながら、戦闘行動地区におけるMiG-23の出現と共に、南アフリカ航空隊も、損害を出し始めた。1987年初め、ナミビア北部上空において、1機の「ミラージュF.1AZ」が撃墜された。数ヵ月後、更に1機の同型戦闘機が、MiG-23との空中戦において、R-60Mミサイルの直撃を受けた。その飛行士は、国境まで辿り着くことができ、救助されたが、機体は失われた。

 「23」で満たされたアンゴラ・キューバ空軍は、制空権を奪取し、維持することができた。かなり広範囲な軍事行動地域への比較的小さい航空隊の集中のため、戦闘機間の空中戦は、比較的希な現象だった。ここに、その一事例がある。2機のMiG-23(キューバ人飛行士、先導機レイ・リヴァス少佐、従属機チャオ・ゴンジン中尉)が、気象偵察に離陸した。ミグが既に空中にあったとき、地上防空手段により、アンゴラ領空に侵入した2つの高速目標が発見された。地上指揮所の指令により、キューバ人飛行士は、接敵針路で敵への接近を開始した。間もなく、先導機は、機上レーダーで敵機の捕捉について報告したが、標的の軸線上に先導機があったため、R-23Rミサイルを発射できなかった(中射程ミサイルを搭載していなかった。)。リヴァスは、ゴンジンに機動して、標的に対する方向を変えるように命令したが、高い接近速度のため、従属機は、対抗針路でミサイル発射を遂行する間がなく、敵は、互いに識別できる最短距離ですれ違った。キューバ人に対峙したのは、「ミラージュIII」だった。旋回戦闘が始まり、キューバ人が敵機の背後に付き、リヴァスは、距離800mからミサイル発射を行い、1機の「ミラージュ」を撃墜した。2機目は、急上昇し、180度展開して、最大速度で降下して戦闘から離脱した。

 1989年、ミコヤン試験設計局の記念日に充てられた国家間航空委員会の記念パーティーにおいて、MiG-23で戦ったアンゴラ空軍 の飛行士を代表する堂々とした黒人が、参加者が予期せぬ言葉を発した。良質な機体に対してR.A.ベリャコフその他のミコヤン職員に感謝して、アンゴラ人は、それで「インパラ」攻撃機を撃墜したと表明した。当時、彼の意見によれば、航続距離に関して、MiG-23は、「ミラージュ」に劣っていた。その後発言した試験設計局のチーフ・パイロット、V.E.メニツキーは、かなりデリケートな形で、アンゴラ人飛行士の自尊心を傷つけないように、「23」は「ミラージュF1」より短くなく、問題が航続距離ではなく、パイロットがエンジンの最適な動作体性を選定できなかったことにあると説明した。

 アンゴラのミグが撃墜した最大の機体となったのは、奥地への兵器の運搬用にUNITAによりレンタルされたС-130「ハーキュリーズ」だった。低空で飛行していた4発機は、機関砲の射撃により撃墜された。

 90年代に南アフリカが「ゲームから脱落」しても、アンゴラでの戦闘行動は停止せず、ルアンダ当局は、ソビエト連邦とキューバの支援を失った。UNITAは、北西部でその行動を活発化させた。アンゴラ政府は、安全保障分野でのサービス提供を専門とする南アフリカの「エグゼクティブ・オウトコムス」社に援助を要請した。当初、同社により雇われた飛行士は、Mi-17ヘリと軽攻撃機に再設備されたPC-7教育機を使用したが、1994年5月、アンゴラのMiG-23MLDもその管轄下に得た。ミグの技術文書の研究で生じた一連の問題にも拘らず、経験豊富な南アフリカ及び欧州のパイロットは、かなり迅速に新しい機体に習熟し(当時修理中だった「複座型」を使用すらせずに) 、総じてこれに高い評価を与えた。特に、元オランダ空軍飛行士レオン・ヴァン・マウレル退役少佐(総飛行時間は3,000h以上、その内1,200hはF-16)は、MiG-23MLDが 「垂直面でF-16Aに圧倒的な優勢を有し、旋回において同機に全く劣っていない」と主張した。その外、「より強力なレーダーが、遠距離での戦闘開始の際、ロシアの戦闘機に著しい利点を与えている」。ヴァン・マウレルの言葉によれば、「我々が(オランダで)アメリカの「ファイティング・ファルコン」を受領したとき 、私は、最良の戦闘機を操縦していると考えたが、後にロシア機の操縦席に座ったとき、誤りだと分かった・・・」。オランダ人飛行士は、既に80年代末、アメリカのネリス航空基地(テキサス州)において、MiG-23(恐らく、旧エジプトのMiG-23MS)を初めて知ったことを指摘すべきである。後に、90年代初め、彼は、ドイツの航空基地の1つでMiG-23MLを研究した。飛行士により、機体設計の高度な強度及び信頼性が指摘された(アンゴラの技術要員の明らかに不満足な作業の条件下ですら)。しかしながら、批判的な評価も存在した。特に、大きな批判を引き起こしたのは、操縦席からの不十分な視界(「MiG-23に乗ることは、風呂桶に入るに等しい」)、並びに西側の基準によれば、エンジンの余計な「大食い」だった。

 アンゴラ空軍のMiG-23MLDのレーダーが性能通りに動かない状態にあり、電波航法設備も機能していなかったことを指摘すべきである。しかしながら、南アフリカの飛行士は、GPS携帯式受信機を機体に据え付け、航法問題を解決することができた。前線のサウリモ及びルボンゴ飛行場から行動したミグは、地上施設に対する打撃に投入された。迅速に高度6,000〜7,000mに達しつつ、機体は、目標地区に進出し、30km位から推進力を0.2〜0.3まで減少させ、事実上、地上の観測者に対して無音となった(反乱軍はレーダーを有していなかった。)。30度の角度で標的に急降下しつつ、MiG-23は、1,000〜1,200km/hまで迅速に加速し、高度800〜1,000mで爆撃を遂行した後、アフターバーナーを点火し、高度10〜12kmに急上昇し、反乱軍の携帯式対空ミサイル及び小口径高射機関砲の射撃による被害を避けた。そのような戦術は、損失回避を可能にした。

 南アフリカの飛行士は、主として、ソビエト製航空爆弾FAB-250及びFAB-500、アメリカ製225kg爆弾Mk.82(ソ連製機の下の懸架用にイスラエルの専門家の参加の下で改良された。)、ロケット弾、ナパーム弾、並びに特に高い効果を示したソビエト製カセット爆弾RBK-250-275及びRBK-500を使用した。「こいつは、全事例において良好だが、特に塹壕にこもった歩兵に対して素晴らしく作用している」と、パイロットは主張してた。

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最終更新日:2052/09/07

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