ハマス

ハラカート・ムハワマ・アル-イスラミヤ
イスラム抵抗運動

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 ハマス、イスラム抵抗運動は、「ハラカート・ムハワマ・アル-イスラミヤ」、「アイヤシュ学生」、「工学系学生」、「ヤヒヤ・アイヤシュ」部隊、「イッズ・アル-ディン・アル-ハッシム」旅団、「イッズ・アル-ディン・アル-ハッシム」「イッズ・アル-ディン・アル-ハッシム」大隊、「イッズ・アル-ディン・アル-ハッサム」旅団、「イッズ・アル-ディン・アル-ハッサム」軍、「イッズ・アル-ディン・アル-ハッサム」大隊としても知られている。

 1987年末、「イフヴォン・アル-ムスリモン」 パレスチナ支部から分離して設立された。ハマスの各種要素は、イスラエルの地にイスラム・パレスチナ人国家を創設する目的を追求しつつ、政治手段も、テロリズムを含む軍事手段も利用した。厳格な機構を欠き、ある部署は地下で、ある部署は、モスク及び社会サービス施設を通して、新メンバーを募集し、資金を集め、行動を組織し、プロパガンダ資料を流布しつつ、公然と行動している。ハマスの主力は、ガザ地区及び西岸の数地区に集中している。平和的な政治活動にも従事しており、特に西岸商工会議選挙に候補者を出馬させ、支援した。

 アメリカ筋の情報によれば、特に「イッズ・アル-ディン・アル-ハッサム」旅団に入っているハマスの活動家は、イスラエルの民間及び軍事目標、 対敵協力者と疑われるパレスチナ人、並びに「ファタハ」運動のライバルに対して、大規模な自爆を含む多数の襲撃を実行した。

 核心を構成する組織構成員の数は知られていない。数万人の支持者とシンパが存在する。

 主として、占領地、イスラエル及びヨルダンに位置している。

 パレスチナの国外在住者、イラン並びにサウジアラビアその他のアラブ諸国の民間スポンサーから資金を受け取っている。資金集めとプロパガンダに関する活動は、西欧及び北米で行われている。

 ハマスの指導者アフメド・ヤシン師は、1936年、アシュケロン市の近くのジュラ村で生まれた。アラブ人とユダヤ人間の衝突が始まった1947年、彼の家族は、ガザに転居し、シャチ難民キャンプに定住した。50年代、青年のアフメドは、後にエジプト大統領ガマル・アブデル・ナセルにより禁止された「イフヴォン・アル-ムスリモン」(「ムスリム同胞団」)組織に加入した。ちょうどこの時、海岸で友人と遊んでいた彼は、 宙返りに失敗して、自分の首を痛め、終生不具となった。数年後、アフメドは、松葉杖で歩き始めた。しかし、80年代中盤から、彼は、松葉杖で立っていない。しかしながら、身体障害は、未来の師がエジプトのイスラム大学「アイン‐シャムス」で教育を受けることを妨げず、アラブ文学の学士号を授与された。ガザに戻った彼は、教師であると同時に、「ムスリム同胞団」の代表になった。

 彼から個人授業を受けたヤシンの生徒の1人の父が、エジプトのガザ総督だった。彼は、初等学校「アル‐カルメリ」での仕事を彼に勧めた。勧告の書簡において、総督は、ヤシンが「体育教師になれる状態にはないが、他の科目は、素晴らしく教えることができる」と書いた。

 後に、彼は、モスクで布教し始めた。「6日戦争」中にイスラエルがヨルダン川西岸とガザ地区を奪取した1967年後 も、彼が講義と布教活動を組み合わせ続けた以上なおさらである。

 1973年、ヤシンは、「イスラム・センター」、後に「イスラム連合」を創設し、ガザのイスラム施設の大部分を自分の支配下に置いた。1979年、イランでイスラム革命が起こった後、彼は、ガザで最初の「イスラム協会」、「アル‐ジャマー・アル‐イスラミヤ」を設立した。協会は、パレスチナ人に宗教、教育及び娯楽分野のサービスを提供した。未成年者が一見無害なサッカーと卓球に従事していたクラブは、イスラエル当局により公式登録すらされた。

 イスラエルがガザ全土にその影響力を急速に拡散したこの「イスラム協会」の活動を奨励したことを認める必要がある。協会は、パレスチナ解放機構民族主義陣営の宗教的選択肢かつ潜在的な敵となった。当時までに「シェイフ」(師)の名誉称号を授与されていたヤシンは、PLOのリーダー、ヤセル・アラファトを批判する多数のインタビューをイスラエルのテレビのアラブ語番組に与えた。

 それにも拘らず、平穏な期間は短かった。徐々に、師は、サッカー及び卓球倶楽部の組織から、政治活動に移行した。1982年のある日、彼の数千人の支持者達が、「非イスラム施設」、つまり、アルコール飲料を販売する店を破壊しつつ、 ガザ中を疾走した。

 1984年、ヤシンは、武器の不法保管に対して、イスラエルの軍事裁判所により禁錮13年を言い渡された。しかしながら、1年後、彼は、レバノンでテロ組織の戦闘員により略取された3人のイスラエル兵とパレスチナ人囚人1,100人の交換の枠内において釈放された。

 ヤシンの集団は、1987年にガザで爆発したパレスチナ人の蜂起、「インティファーダ」に参加しなかった。しかし、民族的騒擾は静まらず、彼は、「イスラム抵抗運動」を意味する「ハラカ・アル‐ムカウマ・アル‐イスラミヤ」、ハマスを設立した。運動は、「海からヨルダンまでの全パレスチナの解放は、我が戦略目的であり、これ以上の聖にして、重要な目的はない。イスラエルの支配からの解放後、パレスチナは、アラブとムスリム世界の中心地となるだろう」と宣言している。ハマスは、ユダヤ人の物理的除去を呼びかけ、キリスト教徒、世俗的発展の道を擁護する左翼活動家、イスラエルと協力するアラブ人を追求している。ハマスの最終目的は、イスラエルの殲滅である。

 ハマスの活動は、ガザ地区だけではなく、ヨルダン川西岸にも広がった。特別部隊「アズ・アド‐ディン・エル‐カセム」が創設され、その戦闘員は、占領当局との協力が疑われるパレスチナ人を殺害した。彼らは、イスラエル兵に対する襲撃を実施した。イスラエルは、当初、「イスラム協会」の創設を歓迎したのと同じ理由で、ハマスを大目に見た。しかし、この運動の武装活動は、警告を引き起こさない訳がなかった。1989年、ヤシンは、再び逮捕され、2人のイスラエル兵の誘拐及び殺人の組織に対して、終身刑を言い渡された。

 拘束期間に渡って、彼の人気は、非常に増大した。しかし、何度も手術を行った師の悪化する健康は、パレスチナ人を極めて不安にさせた。彼がイスラエルの刑務所で死亡したという噂が現れる度に、当局は、ヤシンの弁護士と親族が彼を訪問するのを許可した。ついでに言えば、服役中、師は、自分の組織の指導において重要な役割を演じ続けた。イスラエル紙は、イスラエル保安機関に近い筋を引用して、ヤシンが自由の身である西岸及びガザ地区のハマスの指導者、並びにイラン及びスーダンの支部と連絡を維持したと伝えた。 連絡は、訪問者を通して伝達され、彼に共感した囚人達は、麻痺した囚われ人が手紙を書くのを助けた。最近数十人のイスラエル人を殺した自爆テロと師の直接関係の証拠はないが、彼は、これらのテロ行為を「自衛」と呼んで正当化もした。

 イスラエル人は、実際に拘留中に死亡すれば、師が大殉教者に変わることを真剣に恐れた。このことは、西岸とガザ地区で新たな不満の爆発を引き起こし得た。しかし、同時に、彼を釈放することは断固として拒否した。結局、ヤシンは、釈放された。しかし、ハマスの何らかの決定的行動の結果ではなく、上で語ったように、イスラエル諜報部の摘発のためだった。パレスチナ過激派のリーダー、アフメド・ヤシン師は、ヨルダンでの「モサド」の作戦が摘発されなければ、結局、イスラエルの刑務所で人生を終えたはずである(彼は、終身刑だった。)。1997年10月、9年の服役後、彼は、ハマスの政治部門の指導者ハレド・マシャリの暗殺失敗の結果、ヨルダンの首都アンマンで逮捕されたイスラエル秘密機関のエージェント2人と交換で釈放された。

 1998年3月初め、狂信的な師は、アラブ諸国の長期旅行に向かった。4ヶ月間、彼は、サウジアラビア、ペルシャ湾諸国、シリア、スーダン及びイランを回った。この間に渡って、彼は、アラブ筋の情報によれば、約3億ドルを集めた。金は、当然のことながら、パレスチナ自治区の管轄下にある領域でのハマスの社会的及び政治的立場の強化に充てられた。同年6月末、ヤシンは、ガザに戻った。彼の凱旋帰国は、パレスチナの政治学者の言葉によれば、 政治舞台において多くの点で師に劣っているアラファトに自分の政策を再検討させた。

 「勝てない者とは、親しくするべきだ」と、ハマスの西岸指導者の1人は主張している。今や、ゲームのルールはこうである。実際、同年、アラファトは、ヤシンを喜ばすために全てのことを行った。彼は、彼に外交パスポートを交付し、パレスチナの最高指導部の官僚にしか与えられない赤色の特別ナンバーの付いた自動車を提供した。彼は、テロ行為への参加 に対して有罪判決を受けた数十人のハマスの活動家を刑務所から釈放した。パレスチナ人のNo.1が、その転覆を試みる代わりに、パレスチナ自治区当局 と協力する提案を受け入れることをその盟友に命令することを期待して、師の帰国まで新内閣の組閣を延期した以上なおさらである。しかし、ヤシンは、そのような一歩が「ハマスのノルウェー協定受け入れを示唆するだろう」と表明して、拒否した。

 師のこれほど厳格な立場は、簡単に説明された。自分の旅行時、彼は、惜しみない財政援助を得ただけではなく、非常に顕著な政治的及び外交上の成功も収めた。多くの国の政府は、もはや、彼を小さな誰も知らないテロ集団の指導者とは見なかった。彼は、世界規模の国家活動家の名声を勝ち取った。特にそれ故、アラファトには、アフメド・ヤシンの気を引くしか、他の活路はなかった。

 では、今日はどうか?

 彼は、変わらぬ頑固さで、全パレスチナの解放の名の下にジハードを継続する必要性と、ユダヤ人が少数民族として見られるイスラム国家の創設 について繰り返している。ヤシンが「エルサレム・レポート」紙と行ったインタビューにおいて、彼は、以下のことを想起させた。

 「イスラムは、一定期間の一時的休戦を敵と締結することを許している。しかし、イスラムは、永世和平に関する協定を敵と締結することを禁じている。私の実兄がやってきて、私を家から追い出しても、私は彼と戦うだろう。この地は、3つの宗教にとって聖地であるため、我々全員が平和、公正及び平等に暮らせる方法を見つける必要がある 」。

 ハマスの指導者ヤシンに近いガザのイスラム大学教授イスマイル・アブ‐シャナブは、時折現れる「休戦」の可能性に関する師の意見を具体的な提案として見るべきではないと主張している。

 「私は、多くの者が彼の言葉を誤って解釈していると思う」とアブ‐シャナブと説明している。「彼は、新しい発議をしたのではなく、イスラム史について私に語った」。

 それにも拘らず、教授は、ハマスの軍事部門がテロ行為の停止に関するヤシンの呼びかけに服従するものと考えている。実際、師は、現在のところ、「この権利がない」と主張しつつ、そのような呼びかけをまだ行っていない。別のインタビューにおいて、ヤシンは、彼の組織が、パレスチナ自治区当局と同様、パレスチナ警察とハマス戦闘員がガザのモスク近くで交戦し、ハマス構成員14人の死をもたらした1994年11月の事件の再現を欲していないと指摘した。師は、アルジェリアとアフガニスタンで保持されているような状況のパレスチナにおける創出を許さないため」、ハマスが可能なこと全てを行うと主張した。

 「我々は、たとえ違法だと宣告されたとしても、パレスチナ自治区の戦力とは戦わないだろう」とヤシンは強調した。「我々も、他の全てのパレスチナ人と同様、民族統一の達成を希求している。ハマスのテロ行為について言えば、これは、私の意見によれば、パレスチナ市民へのイスラエル人の攻撃に対する報復である」。

 「我々は、彼らがユダヤ人であることから彼らと戦っているのではない」と師は語る。「彼らが我が故郷を奪取し、我が民族に流浪の運命を背負わせ、我々から独立の権利を奪った」。

 ヤシンのガザ帰還後、ハマスのテロ行為が再開されないといういかなる保証もない。パレスチナの専門家は、ハマスが2つの理由によりテロ行為を一時的に停止し得ると主張している。第1 に、ヤシン師が訪問した国の政府を刺激し、そのことにより彼の活動に損害を与えないためである。第2に、今までパレスチナ自治区との全境界を監督しているイスラエル人には、彼をガザに入れさせないいかなる根拠もないためである。ヤシンが帰宅した今、多くの者は、「アズ・エド‐ディン・エル‐カセム」部隊の戦闘員が再びテロ活動に従事するものと予想している。彼の故郷への帰還は、イスラエル紙が指摘したように、大きな社会・政治的意義を有する事実となり、多くの観察者は、ホメイニ師がパリでの長期亡命後にイランに帰国した1979年の事件と比較した。ガザ地区、サブレのヤシン師の質素な1階建ての家は、一時的に数万人のパレスチナ人の巡礼地に変わった。訪問者の中には、パレスチナ自治区会議議長ヤセル・アラファトと妻のスハもおり、一方、彼女は、11児の母であるヤシンの妻を招待した。

 ハマスには、テロルに回帰する別の刺激もあり、アラファトは、これについて良く知っている。イスラエルでのテロ行為の再開は、パレスチナ自治政府指導者の権威に著しい損害を与える。和平プロセスが長期間「凍結」することは、言うまでもない。和平プロセスにとって悪いことは、パレスチナの絶望により育て上げられた運動、ハマスにとって良いことである。それにも拘らず、今日、ハマスは、明らかにその影響力を失っており、それを取り戻す状態にない。運動は、勢力を集めた和平プロセスに全く対抗できなかったことから、その力を失った。 それ故、政治の脇に追いやられ、パレスチナ人の30%以下しか支持していないヤシンを長とするハマスの指導者達は、現地で活動を展開することに決めた。全ての注意は、今、その個人的影響力がその組織の影響力よりも遥かに強い師に向けられている。

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ハマスの人物

氏名 備考
マフムド・アズ‐ザハル ハマス新指導者
アブド・アル-アジズ・ランティシ ハマス指導者。2004年4月17日暗殺
サラフ・ムスタファ・シャハダ ハマスのガザ地区武装部隊司令官
アフマド・アブ-フヌド ハマス武装部隊司令官

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最終更新日:2005/01/19

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